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2015年3月23日月曜日

三上藩士・鷲見家のはなし


 まるで私事のようだが、今回は鷲見家の話をしたい。というのも、この3月、滋賀県野洲市の歴史民俗博物館にて「三上藩・藩士鷲見家の歴史」という展示が始まったからである。
▲三上藩は東海道中の一藩だった。

 三上藩は、ちょうど琵琶湖の南東、現在の野洲市野洲町三上に存在した江戸時代の藩である。地図をみればわかる通り、新幹線や東海道本線もここ三上を通っている。藩主の遠藤家はもと美濃の郡上を領していた一族である。一時は無嗣改易の危機にも陥ったが、徳川家の裁量により養子を得て、17世紀末期に三上藩の藩主となったのである。
 鷲見家ももとは美濃の郡上八幡に住していた武士の一族である。現在も岐阜県には高鷲鷲見(たかわしわしみ)という地名があり、このあたりはいまなお鷲見氏の本拠地である。附言しておくと、いまの地名はワシミであるが、かつて鷲見郷と呼ばれていた時代にはスミと呼んでいたそうである。遠藤家の家臣として三上にまで移りすみ、家老として江戸時代末期までこの地に家を構えていたのが、グルジアで働くバレエダンサーの祖先だったわけである。
 事実、私の祖父(大正生まれ)の時代までは滋賀県に家屋があった。鷲見家の事跡に深く思うところがあった祖父の命により、私の本籍は滋賀県である(一度も住んだことはない)。現在も鷲見家の菩提寺は滋賀県にあるし、驚くべきことに、野洲ではいまも、私の曾祖母のあたりの人間と接した方々が少なくない。
 さきに祖父が卒(しゅっ)するにあたり、これまで蔵に眠っていた鷲見家関連文書の類いは、すべて野洲の歴史民俗博物館による調査の対象となった。このたび鷲見家の展示が行われる運びとなったのは、いわれのないことではない。三上藩の陣屋はいまに遺構を伝えておらず、藩に関する詳細な記録は失われたものが多かった。三上藩が有していた3家老の子孫のなかで唯一藩の記録を数多く保存していたのが、鷲見家であったものらしい。なるほど祖父は家財を投棄しない人間であった。時にはそういった人の性(さが)が、思わぬ幸いを生むのである。
 私自身はここ数年、上記の文書の一端を見るにつけては解読を試み、叶わぬこと多かった。友人Mの心ある支援については、ここに謝辞を加えずにはおけない。つい先日も、わが曾祖父の蔵書の一部が散逸してしまった。その折、なかでも価値のあった明治時代の初版本の類いを買い戻してくれたのはこの友人Mである。
▲鷲見藤三郎忠堅 画像

 今回の展示を見られないのはなんとも無念であるが、こうして知られざる人間の事跡が日の目を見ることは、誰彼のことと関わらず、言おうようのない喜びである。かくも図々しく、わが家の来たるところを書きしるす所以である。いつか荷風散人よろしく『下谷叢話』のごとき一文を認(したた)められればと思う。最後に、わが曾祖父の曾祖父にあたる、鷲見藤三郎忠堅の事績を記した掛軸から、その賛を抜しておきたい。
規君之遇 救民之瘼 嗚呼鷲翁 闔藩良薬 自古吉人 神明必扶 以為不信 視此澡盂
もしかすると、この「澡盂」も今回展示されているかもしれない。まさしく、「以て信ぜずと為さば、此の澡盂を視よ」といったところである。




(鷲見雄馬)



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