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2015年8月26日水曜日

【委員連載⑨】 非言語賞揚批判の持つ文学的横暴


 この連載、細胞を飼う話から突然言葉の話になったり、流石に脈絡が薄すぎではないかという気がする。もう少し内容的に繋がるように書いた方が良いんじゃないかと思うのだが、それはさておき。三村氏の記事は文学系特有の横暴があるような気がするのだな。確かに氏の言うよう、言葉は大事なのだが、それを示す為に使った論法が数式等の別の物を擁護するのにも使える、万能論法に過ぎるというか。例えばこんな風に。
 
 
 細胞と同じやうに、数式もまた毎日慈しみ世話をしてやらなければやがて枯れてしまふ。ポーランドに来て一週間ほどになつた時、どことなく数の式が萎れてきたやうに感じた。これは一つには自然言語による會話しかしてゐなかつたためであると思はれる。ある夜レプリカ・メソッドによるスピングラスの解法會があつて、それを聴いた後は数式が復活したやうであつた。
 第二の原因はデータをあまり使はないことである。始めのうちはフェルミ推定等の類推しか使つてゐなかつたが、つひに耐へきれなくなつて、今は同じく參加してゐる日本人や、科学を解する中國人の協力を得て、データに基づいて話す時間を持つことができてゐる。また併せて『how nature works』などを讀んで、モデル化の勘が鈍らないやうに努めてゐる。
 表現をする際にはどんなに下らない数式でも必要になる。少し前に、偏微分方程式で「流体力学」を何と表すか教はつた。しかし未だに「量子力学」はどう言へば良いのか知らない。「心理学」や「社会学」の如き、いかにも感覚的な表現も数式になることは分かつたが、「multi agent model」は何と言ふのか。
 物事、動作、感情などあらゆるものは数式で出来てゐるのだ。数式の足りない状態は、影の濃淡しか存在しない世界に似てゐる。数式を得るにつれて、次第に色と形が現れる。日本に歸つたら周りが極彩色に見えるだらう。
 極彩色の世界にも必ず色と形の欠けた部分がある。最後まで塗り潰せない部分もあるだらう。しかしさういふ箇所を過剰に擴大して視るべきではない。人は数式で表せないもののみならず、数式で表せるものさへ表せられてゐないかもしれない。計算不可なるものを賞揚する思考の背後には、自己の限界を以て人間全體の限界とする傲慢がありはしないか。計算不可なるものに出會つた時の衝撃は、今まで数式に甘えてきたことの代償である。ここにおいて、数式を弊衣の如く棄て去るか、数式との新たな友情を模索するかの岐路が生ずる。
 
 
 一般的に文学系の人は、言葉で表せないものを言葉の限界と捉えずに自分自身、ないし人間の認知の限界に求めすぎる。しかし、実際には言葉で表せなくても例えば数式だったり、例えばアルゴリズムだったり、他の手法でなら簡単に表現出来る可能性は大いにある。それなのに言葉で表しづらいものを見た時に、言葉を捨てるな言葉を上手に使えと言うのは、おかしいのだ。言葉で表せないものを賞揚する態度に対する批判的態度は、それこそ「全ては言葉で表せる筈だ」という文学系の傲慢であろう。哲学系や現代思想系が自分自身は言葉による学問しかやっていないのに、特定の学問領域に囚われていない、脱領域の本家だと主張する過ちも、これに由来するのだろう。言葉やロジックだけだとどんなトンデモでも言えてしまうんだから、言葉の運用には非言語が必要でしょ?その非言語の中で言葉の運用を通じて鍛えられる部分はごく一部であり、他の部分は例えば数学なり物理なり他のもので鍛えられたりするかもしれない訳でしょ?そういうことを否定して、言葉一本で生きるのは無責任じゃないのか。ごく簡単そうに見える「正しい統計データの読み方」でさえかなりの専門的訓練が必要であるし、言語系の人は非言語に対してもっと受容的になって欲しいと思ったり。




【委員連載⑩】につづく
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1 コメント :

  1. 非言語体系で表しやすいものっていうのは実際たくさんあると思うけど、当然そういったものでは表しにくい事柄もたくさんあるわけで、ダンスのような非言語表現でさえ帰結するところは数式より言葉なんじゃないかという気がする。だから僕から見ると、この文章のあちこちで試みられてる文学系言語系への反駁は、結局吉村の「数式系」的側面を如実に物語ってるにすぎない、という感じがする(どっちもどっち)。

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