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2015年10月18日日曜日

【委員連載⑫】 無題6


 森岡浩之の『夢の樹が接げたなら』という短編集に「ズーク」という作品が収録されている。この作品で登場する言語(あるいは方言)には普通名詞が存在しない。原則として全ての名詞は固有名詞であって、例えばある少年の《右手》と、別の少年の《右手》には互いに異なる、固有の語が割り当てられている。この言語において普通名詞と考えられる唯一の語がズークであり、それは登場人物の調査官の言葉を借りるなら「名づけられざるもの、名づけられるのを待っているもの」であり、あるいは「名づける価値のないもの」である。ではこの言語には概念化という過程が欠落しているのかといえばそうでもなく、少なくとも動詞や修飾語は《同質な》固有名詞が指す対称について同一の語彙が使われており、単にこの言語が使用されていた(特殊で閉鎖的な)環境において普通名詞の機能を持つ語彙の必要性がほとんどなかったというのが背景にあるのは疑いない。
 前回の記事で「たとえば」と「もしも」の修辞について語られたところの最後、まさにほとんど修辞的に、特に大した説明もなく言及された「たとえば」も「もしも」も存在しない世界というものに、物書きの端くれとしてはどうしても強く惹かれてしまう。どのようなものになるだろうか? というのはつまり、何かを語るときに具体例を示すとか、現実を離れた仮定を入れてみるといったようなことが、修辞の慣行としてではなく、既に言語の機能として存在しないような環境を考えることができるだろうか? あるいは、そのような言語において構築できる観念の体系とは、どのようなものになるだろうか?
 とりあえず、この言語において《数学》は不可能だろう。現代の《数学》はその抽象的かつ厳密な言明を「もしも」に依拠して構築している。それ以外の形式的な思考の体系も大半が阻害されてしまうことは想像に難くない。とはいえ少なくとも体験した現象を愚直に記述することはできるだろうから、経験的な個別知識の集積という形である程度《科学》に似た営みは可能かもしれない。ただしその集積から「もしもこの事例が誤りだったら」とか「もしもこの記述が偽りだったら」いうような検証への道は鎖されていると考えらえるので、この点において《人文学》もかなり大きな制限を受けそうな気がする。
 このような言語が通用している環境として、真っ先に考えたくなるのはオーウェル的な言語を通じた思想統制というディストピアだ。実際、恐らくこの言語では「三年前の冷害では適切な配給が維持されて、我々プロールにも大した死人は出なかった」とか「今年の旱魃では備蓄が解放されず、女子供を中心に少なくはないプロールが飢餓に倒れた」という体験は記述できても、それを「もしも党が備蓄の解放を決断していれば、たとえば全員に乾パンの一缶でも追加で配ってくれていたなら」というような責任追及にまで繋げることができない。無論、同作におけるニュースピークは被支配階級たるプロールよりむしろ支配階級たる党員の思想統制に重きを置いたものなので、ここでいう「もしも」も「たとえば」もない言語の利用と直接に比較するのは虚しいかもしれないが。
 むしろ興味深いのは、人為的な強制力なしに、何かしらの必然の帰結としてこのような言語が通用するようになる場合の方だ。というのも「たとえば」や「もしも」は危険回避やリスク分散など生存上有用な戦略において前提される思考様式だと思われるので、このような言語が使われる場合、恐らくこれらの戦略を言語的な自覚を持って行うことは困難になる。ここで想定できる尤もらしい説明には、これらの戦略がある種の先験的な非言語知として、あるいは集団のスケールにおいて初めて発現するような形でそれぞれの個体に埋め込まれているというものだろうが、現にこのような戦略を実現している種はありそうだし、人間についてもどちらも既にどこかのSFで扱われていそうな気がする。
 いずれにせよ、空想として面白いのはそうした「たとえば」も「もしも」もない言語で世界を把握していた個人や集団が、内的な要請の結果として、あるいは外部との接触を通じて例示や仮定という言語表現を(再)発見したときの変化だろう。「ズーク」ではこの点について一つの示唆的な(しかしある意味ではかなり典型的な)結末が描かれている。それでは我々が、普通名詞の概念も「たとえば」も「もしも」も言語の内に持っている我々この世界の人間が、例えば数学や人文学の深い洞察により、あるいは科学の精緻な観察と検証により思いがけず今の言語の埒外のものを拾い上げてしまったとき、いったい何が起こるのだろうか?




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