前回、吉村君は三村君の記事を批判していた(たぶん)。しかし吉村君は三村君の文章の主旨を読み誤っていると思う。今回はその点を検討するのではなく、余白に思いを巡らしてみたい。ちなみにひとつの問いを立てておくことができるだろう。吉村君は三村君の文章を読み誤っており、しかし一方で吉村君の文章そのものは筋の通ったものであるとすれば、いったいそれは何を意味するのだろうか。「批判」とはどういうことだろうか。そこにも「余白」がある。
さて、前回吉村君は数式のことを言っていた。読みながら私にはふと疑問が浮かんだ。数式のようなものが言語的に経験される、ということはあるだろうか。言語は明らかに、ただ事実を記述しあるいはその説明を与えるというのではなくて、経験そのものを構成するものだろう。つまり言語によって経験する、というような性質のものだろう。数式はまったく違うように思われる。あくまで言語の外にあって、たかだか道具になるのだ、と思われる。
そう思っていたら、面白い文章に出会った。
エウスタティウスがピタゴラスに向かってこうたずねている。「なんとやさしく力強い響きが、なんと不思議に純粋なハーモニーが、わたしたちをとりまくこの夜の奥から聞こえてくる気がしませんか? 深く耳を澄ますとき、わたしの魂は遠くからのうねりを感じて驚きます。わたしの魂はまるで希望がふくらむようにわたしの感覚の隅々まで拡がり、この水晶のような振動と、あの壮大でゆったりしたとどろきを耳にして感嘆します。このような得もいわれぬ悦びを奏でる不思議な楽器の正体はいったい何でしょうか?」
ピタゴラスは彼にこう答えた。「それは天空そのものだよ。きみは神々をも魅惑するものを感じているわけだ。この宇宙には沈黙など存在しない。永遠な声のコーラスと天空の星々の運動とは切り離すことができない。運動する星たちの一つひとつが、その速度に応じてエーテルを振動させては、その振動数に固有の音をこの空間に伝えている。もっとも遠く離れた星々は当然もっとも高速で運動しているから、一番高い音調を全体に提供している。それより低いものはより遅い速度の星々で、わたしたちにもっとも近いものだが、この地球は動かないから、音を出していないのだよ。もろもろの天体は一つの法則に従っているから、それぞれの天体の生み出す音が組み合わさって、あの甘美で、心地よくも変化に充ちたアンサンブルになるのであって、これは天空と天空が奏でるアンサンブルである。この世界の純粋な秩序が君の耳をうっとりとさせているのだ。英知とか正義とか愛とか、そのほかこの宇宙の崇高な場に偏在するもろもろの完璧なものが、この秩序のおかげで感覚に触れるものとなるので、君の味わうその恍惚は、神聖で厳密なアナロジーの及ぼす結果にすぎない……。」
(ポール・ヴァレリー「『パンセ』の一句をめぐる変奏」)
この話は科学が精緻になってきたこととは関係なく、ひとつの真実を衝いているように思える。ひょっとすると数式を「聞く」こともできるのかもしれない。
しかし秩序を聞き取るためには、自分自身に不純物や皮膚のようなものがなければならないのではないか。そうでないと水の流れの中のひとつの水分子のように、自分自身のことに関知しないものになってしまうのではないか。果たして秩序を感得していながら秩序に身を委ねるということが可能だろうか。秩序を聴くとはどういうことだろうか。そんなことも考えさせられる。
* * *
今回私の文章はこれでおしまいである。ほとんど引用で無責任に思われるかもしれないが、リレー形式で連載するのだから、前後の連関を比べ見るだけでも何か意味は見出せるだろう。これも「余白」である。言葉のあるところには余白があり、余白を生むためには言葉がなければならないのだ。
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