第9回の今回は、徳宮博文(とくみやひろふみ, Hirofumi Tokumiya)『『真理への「病」』と題されたメモ書き』への評です。思想とは、哲学とはいかなる営みか、という自己言及的な作品でしたが、それをどのように読むことができるでしょうか。
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▶日野公純 Kojun Hino
理論を「樹」に喩えよう。筆者は理論の構築の過程には、「前提→結論」と「結論→前提」という二つがあるとするが、いずれにしろ或る出発点がある。私はこれを「種」と呼ぶ。この種を育て、理論という樹を育てる。自ずと育ちなどしない。筆者の手元には膨大な水と肥料があると、私は思うし、願う。
しかし哲学は、「すべての前提を疑う学問」だ。樹は『ピレネーの城』の如く宙に浮いて育つのか、或いは、そもそも種を大地に撒かねば樹は育たないのか。私は、大地が宙にあると思い込んで始めるより仕方が無い、と思う。樹が育つ過程で、種も変容する。そして、後から樹が大地に根を降ろすこともある。
さて、筆者は最後に「理論が自爆してしまった」とする。はふう。自爆した理論に何を言おう。「理論が評価されるのは理論の外=混沌によってのみ」だと、当の理論自体が言っているが、よし、これに従おう。この試みが無根拠と言われても構わない、『真理への「愛」』を動力源として生まれた理論が言っていることだから。
筆者も承知のとおり、この類の議論は既に先人が重ねているし、これは「真理」に関する完全な記述ではあるまい。が、この樹が究極の逞しさを得る時が、いつか来るとする。「混沌」は、消えているかも知れない。その時、改めて種を見よう。それは当初は非根源的な何かだったかも知れない、しかし今やそれは、「言葉le langage」へと姿を変えていよう。そんな樹は――私なら、折るよ。
▶宮田佳歩 Kaho Miyata
「メモ書き」とある以上、これは彼の理論の一部でしかありません。執筆時点の彼はもはや存在しないでしょうし、「病」の進行状況が現在どうなっているのか紙面からはわかりません。そのため理論の不十分な点を逐一指摘するのはナンセンスかと思われるので、ふんわりとした感想を述べるに留めます。「わかりやすいように」という努力は見られるものの、彼の言葉を借りればこの文章は私の枠組からはやや遠く、少々難解でした。しかしそれは私と彼の「衝突」ではなく、やわらかな「接触」なのです。この「接触」を楽しませていただきました。
「理論が評価されるのは理論の外=混沌によってのみ」これは冷徹な事実です。ただでさえ混沌とした思想の海に呑まれそうになる中で、自分の軸となり支えとなる持論さえ見失ってしまう。これはまさに病的な「真理への病」です。国際政治においては米国の絶対的覇権が揺らぎ、現代アートにおいては作者と観客の優劣関係・観客同士の格差は喪われつつあり、核家族化は構成員の自由を許す一方で共同体としての家族意識を弱めている。あらゆる領域において脱中心化が進み、みんなバラバラになってしまっているのが現代です。様々な「正しさ」が横行する寄る辺なき現代は、病的な「真理への病」に罹っているのでしょう。
世界の本質に迫る一歩としての芸術的営みであるこの「メモ書き」は、読むたびにまた違った示唆を与えてくれるような気がしています。
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それでは、ごきげんよう。
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