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2015年1月23日金曜日

【連載】前号への評 第14回 鍵谷怜 Rei Kagitani 『二重奏の愛――アルチュール・ランボー「錯乱Ⅰ」』


新論説集「マージナリア」運営委員会編集部です。大寒を過ぎ、寒さも底をつくかというような季節です。ときどきすこしでも暖かい日があると、うれしく感じられますね。

第14回の今回は、鍵谷怜二重奏の愛――アルチュール・ランボー「錯乱Ⅰ」への評です。鍵谷君の文章は詩の訳と評論というものでしたが、それをさらに評するとなると、どういうことが求められるのでしょう。

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▶石丸恵彦 Yoshihiko Ishimaru


 このランボー解釈は、とても乱暴だ。いや、本人がそう断っているのだから別に乱暴だって構わないのだが、あまりに乱暴すぎやしないか。
 本稿で問題となっているのは愛l’amour と慈愛charité / Charité の区別である。処女が夫から受けたのは愛ではなく慈愛であり、それは夫からしてみればCharité(再発明されるものとしての「慈愛」)だったが、妻はそれをcharité(一方的な、いわば哀れみ)と捉えたということだろうか。この辺りの用語については著者自身もやや錯乱ぎみで、慈愛という言葉がcharité なのかCharité なのか両方なのか、わからなかったりもするのだが、全体として著者の主張の向かう先は明確である。愛の構造自体を再構築するものであったはずの地獄の夫のCharité は、妻によって物語の内部に閉じ込められてしまった、と。
 妥当性はさておき、様々な読み方の可能性が開かれているというのは大事なことである。ではこの読みから何が出て来るか。地獄の夫の慈愛は、なんと愛の構造そのものを作り替えようとするものであった…大胆な夫である。しかし、そんな夫が「地獄の道連れの話を聞こう」とはどういう風の吹き回しか。いったい、何を見、何を聞こうというのか?
 酔狂な夫の行動は、愛をCharité に置き換えるという意志のみによっては説明できない。この夫もまた、自らの愛について錯乱の内にあるのではないだろうか。…このような思いつきもまた、そのままでは乱暴に過ぎよう。「錯乱Ⅱ」の解釈を待ちたい。

▶宮田晃碩 Akihiro Miyata


 「いったい誰がこの詩を語るのか」、これは根本的な問いである。問いの意味からして自明でない。「『錯乱Ⅰ』で錯乱状態にあるのは……詩人の発する詩的言語である」というのは明察であると思うが、これだけで十分な答えとしてよいのか、という疑念は拭えないように感ずるのである。この詩的言語は確かに「宙を漂って、形が定まることはな」く、「上昇によって終わると同時に落ちる」ようである。しかし言語がそれだけで自存することはない、そこには聞く者(ときに超越的な)が必ずいて「語り」の場を形成しているのであって、「錯乱」した語りが可能であるのもそのことに拠っている。然りとすればこの詩を読むというのは、如何なる語りの場に身を置くかという問題と無縁ではありえない。翻訳にもこの問題は付きまとう。
 鍵谷君はこれを「論説」という場に置いた。いわば理性的に語り伝えることを選択したのである。彼の語り口は狂気を鎮めるかのごとくである。劇場に於いてはそうはいくまい。狂気の力が場を支配し、或は観客をして孤立せしめる。それが錯乱であろう。すると彼によってランボーの詩は、声を奪われたのか。恐らくそうではない。的確に解釈するにせよ上滑りするにせよ、それによって詩の錯乱は一層鮮烈なものになる。狂った処女にも地獄の夫にも、彼の解釈は届かない。詩の言葉と解釈とのこの奇妙な関係はひょっとすると、「慈愛」と彼が呼ぶものを可能にするのかもしれない。

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次週は、吉村勇志(よしむらゆうし, Yushi Yoshimura)『工学と社会の在り方について』『工学とその安全性、原子力等についてへの評を御紹介する予定です。

それでは、ごきげんよう。

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