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2015年11月15日日曜日

【委員連載⑬】 ことばを教える


 文化大革命が勃発した北京では、あらゆる授業はボイコットされ、教師は「紅衛兵」の学生に吊るし上げられ、暴行を受けた。この秩序破壊はしかし反社会的な運動として行われたのではなく、毛沢東思想、革命、「造反有理」の名のもとに正当化されたものだった。
 この状況をある種のディストピアとして語り、そのことから共産主義、マルクス主義、毛沢東の思想の危険性を見て取り、それらの思想の批判に繋げるというのでは、このエピソードのゆさぶりを十全に受け止め切れていない。たしかに、この「造反」の思想は権力闘争のために毛沢東に利用された、と指摘することは妥当かもしれないが、それだけでは、この思想が紅衛兵たちにとって正当であったことの意義を、そして、この種の論理が権力批判のなかで欠くことのできない役割をいまでも担っているという事実を見過ごすことになるだろう。

 教育のある種の暴力性を回避しようとする試み、教育が信念の自由を侵す「思想教育」に陥ることを回避しようとする試みとして、内面化を教育から注意深く徹底的に排除するという戦略が考えられる。たとえば、日本史において神武天皇について教える際に、「記紀においては、初代の天皇として即位し127歳まで生きたとされている」、「一部の学説においては、記紀において創作された実在しない人物であると考えられている」ということだけを教え、被教育者が神武天皇の存在論についてどのような信念をもつか、被教育者が神武天皇は実在すると思っているかどうかについては、教育の内容にも目的にも評価対象にもしない、というような教育姿勢である。
 この教育姿勢は、ラディカルであるというよりもむしろ穏健な姿勢であるようにみえるかもしれない。しかし、先のエピソードで示唆されていることは、非暴力的な・権力批判的な教育は、それに先立つ暴力と権力によってはじめて可能とされているということである。初等教育において、具体的な歴史を語る前置きとして過去の出来事の存在論や歴史叙述の問題を説明しても、空気や酸素の存在を説明する前にパラダイム論を説明しても、それは端的に理解されないだろう。数学は算数に道具を追加したというよりも、数量の存在論へのコミットという前提の一つを取り払ったとみなすべきだ。教師の生徒に対する権力を教師が指摘できるのは、生徒がおとなしく座っているときだけである。内面化を避けた教育が中等以降の教育で可能なのであれば、それは初等義務教育においてある種の調教が完了されているからなのである。そうであるから、毛沢東の思想を教壇で語っていた教師は、毛沢東の思想によって吊し上げられるのである。

 「ことば」を教えるときに、私はこのことに敏感になることがある。図式的にいえば、「ことば」の教育は初等教育と中等以降の教育では、その暴力性がまったく異なる。
 後者では、「ことば」を教える者は、そのカリスマ性から進んで慕われる師である。被教育者は自身の経験の一部が教育者と共有可能な状態になっており、ある語の意味を理解しようとするときに、教育者は、被教育者の経験から同義語・類義語、字義・語根義、語源、用例などを適切に提示するだけでよい。そのことによって、被教育者が思い当たらなかった言語的経験の組織化の仕方を、教育者は提案することになる。被教育者は、言語的経験を体系化することに成功し、教育者の提案に自発的に納得することになる。
 前者の場合はそうはいかない。彼らの経験を組織化することは、未知の語の理解をたいていは促さない。なぜならば、彼らは組織化されるべき経験を十分に持っていないからである。漢字を知らないのでその語を漢字に書き換えることは理解に資さない。和語を構成要素に分解することができず、発話させるフレーズをそのままの形でしか活用できない。西洋語を知らないのでカタカナ語を語源から理解することができない。大人の世界にしか存在しない言語経験を共有することができない。
 だから教育者はこう口にするしかない、「そのことばは、そういう意味でつかわれているんだ。」あるいは、さらに誤解を深めることになるならば、「そのことばは、そういう意味なんだ」、「そのことばは、そういう意味だと辞書に書いてあるんだ。」彼らが言語を理解するためには、私たちと共有できるような言語経験を叩き込まなければならない、それは彼らのために必要なことだ、いやいや、それでは教育者特有の詭弁に逆戻りしている。
 教壇に立ってなお倫理的であることは可能かもしれないが、私を教壇に立たしめているものは、けっして倫理的ではない。




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