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2015年7月24日金曜日

【委員連載⑦】 細胞を飼う


 細胞を飼い始めてから二年以上が経った。   
 培養細胞の飼い方は普通のペットを飼うのとさほど変わらない。適切な餌と住処を与え、そしてちゃんとまめに面倒をみてやるのが基本である。今私が飼っている細胞の場合、餌は幹細胞用の液体培地、住処の方は特殊な物質で表面がコーティングされたプラスチック製の培養皿で、これを温度や二酸化炭素濃度が一定に保たれた培養装置の中に入れて飼う。元気に細胞が育っていれば一日で二倍、三倍と数が増えていくので、少なくとも二日に一回は餌の交換をしなくてはいけない。そして培養皿が細胞で一杯になる前に細胞を剥がして新しい培養皿へと植え継いでやる、というのが細胞を飼っている人間にとっては日課となる。

 長い間細胞を飼っているとイヌやネコと同様に自然と愛着が湧くものである。毎日細胞を観ていると、今日は変わった面構えをした細胞がいるな、といったことや、この細胞のコロニーはもう成長が止まったのかな、といった些細な変化に自ずと気付くようになる。しかし愛玩用に細胞を飼うことを積極的に勧められない第一の理由として、残念ながら細胞は肉眼でほとんど何も見えないということが挙げられる。細胞に何かイベントが発生した後、例えば細胞を古い培養皿から新しい培養皿に移した時や、細胞に対する毒性が不明な薬剤を加えてから翌日、細胞の安否を確認するために培養器から培養皿を取り出して顕微鏡で覗くまでは常に緊張の瞬間である。顕微鏡で見るまでもなく、培地の濁りによって直ちに細胞の死を悟ることもあるが、大抵の場合肉眼的には何の変化も見られない。顕微鏡のレンズを覗き込んで初めて、焼け野原の如く視野一面に広がる細胞の死骸を目にして意気消沈することがほとんどである。

 多くの培養細胞は繊細かつ脆弱な存在であり、急激な環境の変化や異物の存在によってあっという間に死滅してしまう。カビや細菌による汚染を避けるため、作業ができる場所はクリーンベンチと呼ばれる専用の実験台の中に限られる。クリーンベンチの中であれば培養皿の蓋を開けても汚染の心配なく作業を行うことができるが、そこでも細胞はクリーンベンチのガラス越しに眺めることとなる。ガラスを隔てずに細胞と接することができるのは、それ以上細胞を生かす必要が無くなった時のみである。

 並みのペットに比べて細胞は飼い続けるのに神経を使うとはいえ、一時的に飼うのを中断したい場合には凍結しさえすればいいという点において、飼い主にとって細胞は非常に都合の良い存在である。例えば旅行前に細胞を凍結保存しておき、帰ってきてから解凍してもう一度培養皿に細胞を播いてやればまた元気に細胞は増えてくる。適切な保存液を用いれば、冷凍状態で細胞は数年間保存が可能であると言われている。いくら培養皿上で細胞が死のうと、冷凍庫に凍結した細胞のチューブが一本でもあれば同一の遺伝的背景を持った細胞を復活させることが可能である。しかしながら細胞が生きた状態でなければ実験はできず、結局のところ実験を進めるためには世話をしつつ細胞を飼い続けることになる。
 私はこのようにして培養を続けた細胞を材料として研究を行っている。研究計画書には、再生医療に役立つような細胞生物学的知見を得る、といった尤もらしい研究目的が書き連ねてあるが、実際にどのようなデータが得られるか、そもそも何かしら有意義なデータを得ることができるか自体が定かでない。ましてや、将来的に何か特定の疾患の治療に役に立つのか、と聞かれたところで、うーんどうでしょうか、と答えるほかないのである。
 医学を学んでいると、この世の中に存在する疾患の種類の膨大さに圧倒されるばかりである。医者にかかる側からすれば自らの苦しみが無くなるか無くならないかが最大の関心事であり、たとえその場しのぎの対症療法であったとしてもその意義を否定するものではないが、それは疾患という兎を徒に追いかけ回しているに過ぎないのではないかと感じてしまう瞬間がある。研究者というのは、兎がもと来た穴の中の様子が気になって仕方がない人種なのであろう。穴の縁から様子を伺うだけでは満足せず、一歩足を踏み入れたが最後、暫らくの間はその穴の中から出て来られなくなる。かくいう私も未だに兎の穴の中を滑り続け、どこに辿りつくとも知れぬ状態にある。そして明日もまた細胞の世話を焼くであろう。




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