文章が書けない。
運営委員が持ち回りで書いているこの委員連載、自分の番が回ってきてから2週間と数日が経過しているが、未だに一文字も書いていない。編集部からの原稿催促のメールは既に3通頂戴している。書けないなら別の運営委員にお願いするとの警告も昨日受け取った。編集部も私も切羽詰る中、「さすがに今日中には書き上げるぞ!」と思っては夜毎にWordを立ち上げるも、頭の中には遠くカスピ海の彼方から怒りの念を送ってくる編集長の般若の形相が大写しになるばかりで一向に筆は進まない。キーボード上で指は固まったまま、気づけばラップトップを枕に夢の世界へ旅立っている。
曲がりなりにもこれまで何度かMarginalia/新論説集に投稿してきた私が、なにゆえ今回の連載にこれほど苦戦しているのか、この産みの苦しみのメカニズムを何としても解明すべく考えをめぐらせてみた。まず頭に浮かんだのは、準備が足りないとの理屈である。これまで自分が論説集に投稿するときは、原稿を書きだす1,2ヶ月前から何について書くべきか考え始めていた。まず自分が今面白いと思っていることをリストアップし、考えを深めればさらに面白くなりそうなトピックをいくつか選んで、暇をみては思考をめぐらす。書評であれば、取り上げてみたい本を数冊選んで、日々の空いた時間に手に取るように習慣づける。すると、個々のトピックあるいは本の中でも特に面白いと感じる点、強調すべき点が見えてくる。実際に論説なり書評なりを書き始める時には、どんな流れで書けば自分の「面白い」という感覚が伝わるのかイメージが掴めてくる。その境地に到達していれば、キーボードに向かっていればとりあえず何かしら言葉が出てくる。
一方今回の委員連載では、自分の書く順番は1か月以上前からわかっていたにも関わらず、書きたくなるような題材を見つけられず思考を深める段階に至らなかった。思い付く題材のどれもこれもが、委員連載という枠には相応しくないように思われて仕方がなかった。どうやら、この「相応しくない」という感覚が、我が産みの苦しみの大元にあるらしい。委員連載は新しい企画である。これまでの委員連載全5回を見てみると、掲載されている文章の風合いはバラバラである。取り上げた題材も言葉遣いも連載記事の間の隔たりは大きい。いうなればこの企画には書き手のための「型」がない。
世の中、大抵の文章には型がある。新聞記事にも、実験レポートにも、医者の書くカルテにも型があり、その型に沿って書くことを要求される。医学生の私は日常的にカルテを読んだり書いたりしているが、腹にしこりがある患者のカルテに「腹にしこりがある」と書くことはあり得ない。「左下腹部に手拳大の腫瘤を触知する」といった書き方に統一されていて、そこに言葉や表現を吟味する余地はない。そこまでいかなくとも、例えばMarginalia/新論説集の自由投稿でも、型から逃れるのは(少なくとも私には)容易でない。自分の自由投稿の書き方を振り返ると、主張の提示→根拠の列挙→個々の根拠の説明→主張の再提示、といった感じで、高校で覚えた英作文の書き方をほぼ踏襲している。人から教えられた文章の型を律儀に守った自由投稿であり、ある意味出来合いの型から一歩も出ていない。そもそも、型のない文章を書くことなど、これまでの人生で求められたことがないのだ。
そんな私が委員連載の執筆を命ぜられ、まあとりあえずこれまでの連載を読んでみようとこれまでの連載5回分を一度に開いたとき、悲劇は起きた。どんな型に沿えばいいのかわからない。他者の悲しみや痛みに芸術を介して迫ろうとする書き手もいれば、自分の日常生活上の問題にクローズアップする書き手もいる。こうなると、自分の常套手段である英作文じみた論説を載せると浮いてしまいそうで気恥ずかしくなり、萎縮する。しかも、これまでの連載はどれも面白く読めるものばかり。なおさら自分の文章を委員連載として掲載するのが恥ずかしくなってくる。
ここまで考えたところで、実は自分が今まで文章を書くときは随分見栄を張っていて、周りから浮かずにしかも面白いと誰かに言ってもらえそうな文章を書こうとあがいてきたらしいことに気づかされた。文才が無いとか話が面白くないと読み手に思われるのが自分は怖かったらしい。もちろん誰しもそんな風に読み手に思われるのは良い気分がしないだろうが、私の場合は特に読み手に見下されるのを恐れていたのだろう。『山月記』で言うところの尊大な羞恥心が、私は特に強かったとも言える。文章を書くに当たっては、羞恥心も自尊心もかなぐり捨てて無心で言葉を組み上げる時間が誰にとっても必要なのかもしれない。
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