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2014年12月2日火曜日

【連載】前号への評 第8回 大場悠大Yudai Oba 『宙ぶらりんの記憶』


新論説集「マージナリア」運営委員会編集部です。めっきり冷え込んでまいりましたが皆様いかがお過ごしでしょうか。(私は風邪を引いておりました...)

今回から第22回まで、第3号より「前号への評」を掲載いたします。第2号には多くの力作が収録されただけに、それぞれどのように読まれたのか注目すべきところです。全体として第2号がどう読まれうるかということも、ようよう広がりをもって見えてくれば、という期待があります。

さて第8回の今回は、大場悠大(おおばゆうだい, Yudai Oba)『宙ぶらりんの記憶』への評です。論説というより小説的な文章ですので、それに評を寄せるということは特殊な趣があるかもしれません。大場君の文章がなんとなく想像されるでしょうか……?

* * *

三村一貴Kazuki Mimura


オブローモフはずつと昔に死んだ母の姿を見て、夢を見ながらも嬉しさに、母への燃えるやうな愛に震へた。彼の、眠れる彼の睫毛の下から浮き上がつて、二粒の熱い涙はぢつと止まつた。
         ――ゴンチャロフ『オブローモフ』第一部第九章「オブローモフの夢」 より(三村譯)

 「懐かしいなあ」と「叔父」は呟く。世上に流布する懐古趣味(回顧趣味)の言説は老いの繰り言に過ぎず、舌ばかりが衰へずに殘つた人々は、饒舌な自己滿足の誄歌を歌ひながら朽ちてゆく。今の世が暗いのは単に自分の眼が霞んできただけなのかもしれないなどとは毫も疑ふことなく……。過ぎし年月へのтоска、或は今グルジアに舞ふ、かの「コーカサスの虜囚」が嘗て語つたsaudade は、幼子のやうな透明な涙をいつまでも流せる者のみが解する。批評でもなく、説教でもない、「懐かしいなあ」といふこの言葉は、そのやうな涙の一粒である。


▶宮田晃碩Akihiro Miyata


 記憶というのは、いったい何処にあるものだろう。「宙ぶらりんの記憶」、これは大場君の記憶であるには違いない。だがそこに綴られるのは彼の家族の記憶でもある。庭の隅に立つ大木の記憶、「離れ」に仕舞われていた記憶、或は家という記憶。家族の持つ記憶であるというだけでなく、「宙ぶらりんの記憶」として綴られたそれは、まさに「家族の記憶」としての印象をほのめかす。荷物の再配置はあたかも、家族の再配置のようでもあり、これが読む者を宙ぶらりんにする。
 郷愁というのは、いったい何処にあるものだろう。「叔父」の記憶にだろうか、「チェロ」にだろうか、それとも「叔父」の顔を見る「僕」の視線にだろうか。「僕」の綴る記憶はまるで、郷愁を渇望するかのようである。「僕」の郷愁はまるで、家族の郷愁を着込もうとするかのようである。ひょっとするとそうして、記憶を宙吊りにすることで、彼は自分自身を宙吊りにしようとしているのではないか。
 時が経つためには、場所がなくてはならない。結局のところ我々は、どこかへ帰ろうとしている。そのあいだにはその場所も、自分自身も変わることだろう。場所が記憶を待っている。彷徨える宙ぶらりんの記憶は、それが語られる新たな場所を求め続けるだろう。その途中に彼は会いに来た。郷愁は装飾であることをやめる。帰るべき場所が出発点となる。記憶は希望になる。

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次週は、徳宮博文(とくみやひろふみ, Hirofumi Tokumiya)『『真理への「病」』と題されたメモ書き』への評をご紹介する予定です。
それでは、ごきげんよう。

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