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2015年3月28日土曜日

【連載】前号への評 第22回 第2号Marginalia No.2 総評②


新論説集「マージナリア」運営委員会編集部です。
あちこちで桜が咲きだしました。和歌では単に「花」といえば桜のことを指しますし、日本人にとって桜は特別な存在となっています。しかしじつは、万葉集に収められている歌を見ると、桜を詠んだものより梅を詠んだものの方がずっと多いのですね。歴史を通じて桜がどのように見られてきたか、調べると面白そうです。

第22回の今回は、徳宮博文(とくみやひろふみ, Hirofumi Tokumiya)君による総評です。私たちはふだん、雑誌を「できあがったもの」として見ることに慣れてしまっていないでしょうか。徳宮君は、雑誌を「生き物」として、「物語」として読むことを提案しています。どうすればそのような読み方ができるのか、これはとても重要な観点であるように思われます。

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▶徳宮博文 Hirofumi Tokumiya


 私はこの『新論説集』という雑誌がどのような理念の雑誌であるかと問われたら、この雑誌には理念なるものは無い、と答えたい。
 だから例えば、私が前号に初めて寄稿した文章が『新論説集』に載っているのは、載せるために書かれたのではなくて、私が書いたものがたまたま載ったという意味で、偶然であるといいたい。
 しかし偶然集められた文章は、雑誌という場においては、私たちにそれぞれ繋がりのあるものとして現れてくる。同じ雑誌に載っていることの意味を考えて読むと、『新論説集』はより一層おもしろい。紙面では相互に評を書き合い、合評会などで執筆者が交流していることがさらにこのことを裏付けている。

 第二号の文章を『新論説集』の場を通して読むと、どう読むか、どう書くか、どう感じるか、どう考えるか、どうするか、どう生きるか、ということがそれぞれの文章で問題とされており(それぞれの文章はどれにあてはまるのだろうか?)、そしてこれらの問題はつまり同じ問題なのだと、執筆者たちは同じ問題に悩んでいる段階にあるのだということが、みてとれるのではないか。私の視点を一つここで提案したい。

 翻って、今号、第三号の発行へ向かっている「今」から、第二号をみてみたい。第三号の文章を執筆している者は、みなとても苦しんでいるようにみえる。実際に顔を合わせているわけではないのだが、それでもそう感じられる。第二号と比べてもそうである。私もとても苦しんだ。なぜならば、それはおそらく、私たちが「どう書くか」ということを問題にする段階にあって、もはや率直に書くことができなくなっているのではないか。そしてそれは私たちに共有されているのかもしれない。
 振りかえれば、その意味で第二号はより力強い文章が集まっている。雑誌というものは、生き物のようで有機的なものである。人を物語としてみるように、雑誌も物語としてみることができる。『新論説集』にどのような未来があろうとも、第二号はそれを読む上で欠かせない一章となるような、そのような大切な一冊になるのは疑いないだろう。

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今週で、第3号掲載の「前号への評」はお終いです。

さて、つい先日のことですが、『新論説集「マージナリア」第4号』がめでたく発行されました。(→第4号の販売案内をご確認ください)
第4号には、第3号に対する「前号への評」が収録されています。物語の新たな一章を、ぜひご覧ください。ウェブ上でもまた後日、記事をご紹介します。

それでは、ごきげんよう。

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