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1970年1月20日火曜日

第3号短評(林・宮田)

林泰志Hiroshi Hayashi

慶應義塾大学医学部

 構成としては蒸留釜の絵にウイスキーの製法の説明書きを添えただけの、至って素朴な広告である。全体の半分近くの面積を占める二個の釜と、「(これはウヰスキーの)蒸留釜です」という巨大な文字は真っ先に目に入るとしても、この広告が何を主張したいかというのは一見不明瞭である。日常生活ではまず類するものを見ない、不思議な形をした釜がどうやら蒸留釜らしいということは分かっても、九割方の人はこれ以上の内容に興味も持たず広告の前を足早に通り過ぎてしまうやもしれない。広告を眺めることの他何も為すことがないほど時間を持て余している人か、説明書きの細かな文字に一々注意を払って読むような親切心の持ち主でなければ文章を最後まで読み通すことはないだろう。だが見方を変えると、この広告は日々の雑事に忙殺されることのない限られた階層の人々を対象としてメッセージを発しているとも考え得る。時間的・精神的なゆとりを持ち合わせた人間であればサントリーウィスキーの「本格品たる所以」をこの広告の背後に十分に理解することが可能であり、その後彼らはサントリーウイスキーを口にした時に一層の満足感を覚えるに違いない。こうした人々に愛飲されるようになれば、広告としての役割は十分果たされたと考えて良いだろう。一目で見て分かる、多くの人に伝わる、という広告の常識の真逆を行っているが、この朴訥さには何とも言えない味がある。
(588 字)


宮田晃碩Akihiro Miyata

東京大学教養学部教養学科

 広告というのは商品を買ってもらうための道具である。それが評価されるのは、如何にその役目を果たしたかということによってでしかない。従ってそのものとしての美的な価値であるとか興趣であるとかは、寧ろまったく自由に開け放たれている。そしてそれらは、街頭で人を待っている間、居酒屋で注文するとき、といった個々の場にのみある。そうだとすれば、この場も一種の酒場となろう。広告は静かにしているのだが、これが多くの芸術作品と異なるのは、芸術作品が見る者をまず黙らせるのに対して、広告は人に冗言を連ねさせるのである。しかし冗言にこそ真理が宿っていた
りする。
 今回我々は「ものを言う」という主旨で酒場に集まった。この広告もそれゆえ、そういう酒場にあるものとして見られている。白い壁にこれだけが掛けてあるので、集まった人々はやや困惑している。広告に触れることは決してできない。だから我々としては広告を前にして、それも本当に見えているのだか疑わしいというような状況で、我々の言葉を話している。我々の言葉は広告に届かない。ただ白い壁に言葉が反射して、我々の言葉として我々に聞こえてくる。そのうち壁に反射した声が、どこかへ抜けていくのに気が付く。我々は振り向く。不思議な経験をした、と口々に言い合いながら、我々は壁を後にする。
 ある日同じ広告を、居酒屋の壁に見出す。そこで私の脳裏にはあの白い壁の記憶が蘇り、私は言葉を失うのである。
(600 字)



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