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1970年1月20日火曜日

第3号短評(吉村・鎌田)

吉村勇志Yushi Yoshimura

東京大学工学部システム創成学科

 正直、この広告には興味が無い。しかし、提唱者の高橋がわざわざ写真を2 つ挙げたのは興味深い。一つは広告全体の写真で、もう一つは文字部分の拡大である。拡大画像がもっと複数あって、広告全体をカバーしているなら分かる。しかし、何故文字部分だけなのか。絵の部分と比べて、文字の部分は重要とでも言うのだろうか。ここで、文字は読めなければ意味が無いとの反論があろう。しかし、読めずともデザインとして成立している文字は存在しているし、逆に細部を見なければ真価の分からない絵も存在する。ミクロ構造の複雑性というと、幾つか種類がある。有名なものはフラクタル。拡大しても同じような図形になっているものだ。相空間のカオス軌道のような仮想的なものだけでなく、あらゆる現実の自然、社会現象にも見られる。地形や人間関係のネットワーク構造等がそれだ。これの亜種に、自己アフィンフラクタルというものがある。これは拡大の縦横比が違うもので、株価の変動に見られるのはこのパターンである。一方、拡大すると同じになるのではなく、全く違うものになるという意味で複雑なものもある。これは進化やデザインに依るものに多く見られる。生物の体を細かく見ていくと、全身が腕になり、腕が手になり、手が指になり、まだまだ血管、細胞、遺伝子……と変化し続けていく。以上の2 つに共通するのは、分解しても直線にならない、即ち微分では解釈出来ないという一点のみである。
(600 字)


鎌田淳Atsushi Kamata

早稲田大学商学部

 広告はとても従順な制作物ではないだろうか。時代背景、媒体、作り手、そして受け手に対して、完全に縛られている。そもそも人工的な制作物は須らくそうではないかという意見もあるだろうが、例えば芸術は明らかに自らが依拠しているものから解放されたいという欲を覗かせている。
 今回提示された広告は、制作当時とても従順だったのだろう。しかし、当時と現代では時代背景が大きく異なるであろうし、媒体も紙から電子情報となり、作り手は既に不在で、受け手も当時の想定とは異なる。縛られていたものから解放されている様はまさに芸術の目指すところかもしれない
が、あまりに解放されすぎ、宙に浮いているとも言える。このままでは感想を述べることも難しい。そこで受け手である私に引きつけて感想を言えば、ウイスキーの小瓶を一気に飲み干すパフォーマンスをしていた頃は大変だったなあといったところか。
 私のこの感想に対して、この短評の読み手は戸惑う。それはやむを得ない。自分のみに引きつけた感想では、文脈を共有し得ない読み手からは理解を得られない。一般的には、私が読み手と共有する文脈に絡めた感想を述べるべきだろうし、もしくは編集者が私のような人間を想定して、共通するテーマを設定するのだろう。
 しかし、読み手が私の人となりをよく知っている場合は話が別である。私が言いたいことを言いたいように述べても、読み手は理解できるのだ。
(587 字)


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