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2014年10月7日火曜日

日本語で医学を学ぶこと


 今日、医学部の図書館には当たり前のように日本語の医学の教科書が並んでいる。「岡嶋解剖学」「戸田微生物学」「朝倉内科学」……これらのテキストは版に版を重ね、スタンダードな教科書としての評価を獲得している。私を含む日本の医学生はこうした教科書を通じて(あるいは間接的に参考書を経由して)医学の知識体系に接し、基礎並びに臨床医学を学んでいる。

例えば解剖学の教科書を開いてみると、全ての解剖学用語について日本語名と英語名、時にはラテン語名が併記されている。解剖学用語の和名は、「十二指腸」が「指12本分(の長さ)の腸」を意味するラテン語名Intestinum duodenumから訳されたようにラテン語由来のものがほとんどであるが、「鎖骨(Clavicula)」のようにラテン語名に基づかず、恐らくは中国の古典に由来する名称が用いられている場合もある。

今日の日本の医学教育は『解体新書』以来の医学書の翻訳、とりわけ医学用語の日本語訳の歴史の上に成り立っている。日本人が接することのできた最先端の医学知識が記されたテキストの使用言語はオランダ語からドイツ語、英語へと変遷を遂げてきたが、現在に至るまで、どの時代でも必ず翻訳という作業は行われてきた。昨年も、精神科領域における診断基準として世界的に用いられている「精神障害の診断と統計マニュアル」(Diagnostic and Statistical Manual of Mental DisordersDSM)の最新版がアメリカ精神医学会から出版され、疾患名の変更に伴って日本語の用語の再検討が現在進行形で行われている。日本精神神経学会が今年発表したDSM-5病名・用語翻訳ガイドライン(初版)の前書きによれば、ガイドラインの作成に当たって総計17回の会議が行われたという。果たしてこれほどの労力を払ってまで用語の翻訳を行う必要があるのだろうか?

日本を除く多くの国では非英語圏であっても、医学教育は英語で行われることが一般的である。医学分野に限らず高等教育全般に言えることであろうが、母語による教育が当然の環境に身を置いていた立場からすると、英語を介してしか知識の伝達が為し得ない状況というのはなかなか想像しにくい。しかし実際は高等教育までもが母語の中でほとんど完結する日本の教育環境の方が非常に特殊で、そして例外的に恵まれた状況なのである。

決して日本語による医学教育が問題を抱えていないわけではない。新規性の高い、あるいは信頼性の高い最新の研究成果は権威ある英文雑誌に掲載され続けていき、その内容にアクセスするためには英語を介さなくてはいけないので、結局日本語と英語の両言語で学ばなければならない場面は登場してくる。また、留学や学会発表等で海外の医療関係者とコミュニケーションを取る必要が生じた時に日本人は圧倒的に不利な立場に置かれがちである。それは日本を除くあらゆる国の医学生が教科書を通じて恒常的に英語に触れ続けるのに対して、日本の医学生は、医学英語はおろか日常会話レベルの英語すら教養科目としての「英語」の授業の外ではほとんど接する機会なく卒業できてしまう、ということを考えれば当然の帰結ではある。

これらのデメリットを補って余りある日本語による医学教育のメリットとは何であろうか?

一つは、敢えて指摘するまでもないことではあるが、英語よりも母語の方が確実に知識体系の習得は容易であることである。それは日本人の英語読解能力が低いということだけが理由ではなく、母語を通して学習する方が直接的な理解を得やすいからである。必要に迫られた時に英語を後付けで学んでいくのは確かに二度手間ではあるが、基本的な概念を理解した上で特定の分野で用いられる単語だけを覚えるのであればさほど困難なことではない。日本語では他の言語では類を見ないほど充実した文献の蓄積があるのだから、まずはその恩恵に与らない手はない。

さらに、医学分野での「読み書き」に日本語を使用し続けるより大きなメリットは医療の場面にあると私は思う。一般の自然科学の研究は自然界の真理の追求を目的としている以上、それを記述する言語は極論どの言語であっても一向に構わないだろう。それに対して、医学は生物学的なヒトを研究の対象とする自然科学の一カテゴリーに属しながら、研究によって得られた知見は、最終的に一般社会の中で疾患の治療や健康の増進に役立てられることが強く期待されている。ある疾患に関する情報が英語でしか提供されていないとすると、その情報を必要とする患者の中で極めて限られた数の人しか実際にその情報にアクセスできなくなってしまう可能性が高い。疾患そのものや治療方針に関する専門知識は医師だけが保持していれば良いという価値観は過去のものである。我々自身の身体について知る権利は誰しも保障されるべきであるというように今日では捉えられている。医学知識の提供を求める立場の人にとってはもちろんのこと、その要求に応える医療従事者にとっても、背景に母語による医学知識の集積が存在していることほど好都合なことはないのである。
  将来的に日本語で医学を学び続けるために、あるいは医学を扱うに耐える言語としての日本語の存在価値を保つためには過去の遺産に頼るばかりでなく、国内で新しい知見を生みだすか、もしくは他の言語で発表された研究成果を移入する作業を継続しなければいけない。これには前述のとおり相当な労力が必要とされるが、非常に豊かな日本語での医学分野の土壌を干からびさせることほど惜しいことはない。日本の医学という田に絶えず新たな水を継ぎ足していけば、必ず豊かな実りをもたらしてくれるであろう。

(林泰志)

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