なんということだろう。いまや人間の輝きがすべて降り注ぐような気がする。合唱の意味はここにあったのだ。言語が一なるものを求める、その張りつめた静寂が大音響で、人の体を迸る――。
歌唱の巧拙は私にはよくわからない。歌について常々思うのは、それがいくつかある芸術の分野の中でも特に、イデア的な想起をさせる形式のようだ、ということである。反復するという形式から言えば楽器の演奏でも事情は同じだろうと思うのだが、歌にはやはり特別な「イデア的性格」があるように思われる。このことについてはまた触れるつもりだが、私が歌の巧拙をあまり気にしないのも、この点に拠っているような気がする。歌によって表現されるイデア的なものが十分に私の中で「想起」されるならば、私はむしろこのイデア的なものを聞いているのではないかという気がするのである。
「東京大学コーロ・ソーノ合唱団 第61回定期演奏会」
Program
1st stage "The selection of Moses Hogan"
2nd stage 「近現代北欧の男声合唱曲集」
3rd stage 女声合唱とピアノのための「蒼ざめた薔薇」より
≪Intermission≫
4th stage 混声合唱組曲「いまぼくに」
実のところ、何についての感想を書くのだろうか、これも私にはよくわからない。別に合唱の出来を批評しようという気ははじめからないし(はじめからその気でいて演奏を聞けるものだろうか?)、曲についての評言もまったくできない。ただ私がそこで何らかの経験をしたことは確かだし、その経験が私に新しい理解を開いたことも確かである。はて、そんな経験談を開陳して何になるのか。しかし私は、その経験が人に伝えるに値するほど真正なものであると思う。ひょっとすると通り一遍の感想に堕してしまうかもしれないし、逆にあまりにも「遠くの」言葉遣いに見えてしまうかもしれない。だがとにかく、それを伝えることによって私は、合唱への理解、言語への理解、はては人間への理解が開かれるものと信じる。私が優越した理解を持っているというのでは決してない。出来るだけ多くの人がそういう理解へと開かれるということが、私の唯一の目的である。通り一遍の感想に堕するならば、私の言葉が及ばなかったのである。言葉遣いが遠くのものであるように見えるならば、私の思惟が及ばなかったのである。しかし「遠さ」こそは、それぞれが進むべき道のりである。だから私はぎこちない表現を避けるより寧ろ、陳腐な表現を用いないことに意を砕こうと思う。
1st stage
- The Battle of Jericho
- Hear My Prayer
- Ride the Chariot
- Abide with Me
私自身はキリスト者でないのに、いかなる意味でか神への祈りの敬虔さや、そこへ差し込む光の神々しさを知る。確かにそれは神的なものに違いないのだが、しかしやはり人間の敬虔さが心を打つのだ。敬虔さを人間の儚さや純朴さに於いて見るというのではない、敬虔さはおそらく、自ら敬虔になることによってはじめて心を打つものになる。それだから心を打たれている私は同時に、私の方では知らないながらも、神の栄光に浴するというようなことになるだろう。
歌がイデア的なものを表現するというのはこの場合、神的なものを表現するということになる。人間の言葉の不完全さは、神の栄光を称えるに足らないというよりも寧ろ、その不完全さを繰り返し繰り返し唱えることによって、神の愛を証することになるだろう。
(そういったことは必ずしも、神を信じていなければ感じられないというものではない。とはいえ西洋の音楽がこの方面に特化したということは言いうるかもしれない。)
作曲者Moses Hoganは45歳にして脳腫瘍のため世を去ったと、パンフレットには書いてあった。
実は携帯電話の電波を切り忘れていたから、私は合間に電波をオフにした。
2nd stage
- Ave Maris Stella (Edvard Grieg)
- Hiiden orijin laulu (Selim Palmgren)
- Wanderers Nachtlied (Armas Järnefelt)
- Cantate Domino (Vytautas Miškinis)
私は友人にチケットをもらって来ている。彼はコーロ・ソーノの団員である。演奏会の感想はどういう風に言うべきものだろうかと、演奏を聴きながら考えた。「面白かった」というのは味気ない。どちらかと言えば歌に感動するのである。してみれば「感動した」というのはどういう意味で言うべきだろうか。つまり、何を讃えていることになるだろうか。演奏会なのだから、いかに素晴らしく歌っていたかということを讃えるのが普通である。しかし先から言っているように、私はなにか神的なもの、イデア的なものに打たれて聴いている気がする。曲そのものとか、歌そのものとかを讃えるというより、その神的なものを讃える方が正直な気がする。それだから、少し奇妙だが、あとで彼に会った時には二人して神的なものを讃えるべきだろう。このことは、例えば讃美歌などには極めて適切なことだと思われる。しかし讃美歌のみならず聴く歌はそのように聴こえてくるのである。
そう考えてみると、歌い手というのは何者になるだろうか。神的なものをこうして伝えるのだから、キリスト教で言えば使徒みたいなものだろう。作曲者、作詞者は預言者だということになる。この見方は私の中でよく納得された。
歌われるものがイデア的なものとして感じられたというのは、ひょっとすると詩が外国語であったからというのもあるかもしれない。ラテン語、フィンランド語、ドイツ語、ラテン語。遠ければ遠いほど、遠くのイデアが求められることになる。
実を言うと、プログラムを特に確認しないまま来たのである。すべて聴き終ってからようやく、そういえば前半と後半は西洋語と日本語とで別れていたのだということに気づいた。
3rd stage
1. 距離
4. 雪によせる熱情
5. 風の彼方から
昭和の女流作家、林芙美子の詠んだ詩が題材になっているらしい。グランドピアノが舞台の中心に据えられる。女声合唱はそれだけでは重石を欠いて聴こえるのかもしれない、ピアノはその舞台上での配置が示すように、合唱を一本に束ねることを可能にしているようだった。
日本語だからだろうか、日本人の詩だからだろうか、それとも作曲が日本人の手になるからだろうか、前半までの曲とは全く感じるものが違っている。否、そもそも前半の曲にキリスト教の色が強かったことが印象を決定してしまったのかもしれないが、とにかく根本的にものが違うということを感じたのである。これはまったく、あの神的なものを表現しているように感じられなかったのである。むしろいわゆる「自然」が見えてくるような気がする。試みに目を閉じてみると、薄い色の空に薄い色の雲、はりつめた空を震わせんとして大気の全体を揺すぶる、そういう歌であるように感じられた。
思い返してみると私が幼いころから聞いてきた音楽というのは、かなりの部分がテレビを通して聞いたものであるし、原体験はそれなりにアニメやゲームといったものを通じて形成されたところがある。ジブリなどその筆頭である。それらもいわば、想起される限りにおいてはイデア的なものと言えなくもない。私はここでは、神的なものの代わりに「アニメ的なもの」を聴くような心地がした。
4th stage
- よげん
- 道
- ゆき
- いまぼくに
- 木
谷川俊太郎の詩からの組曲である。
手元の歌詞を見ながら聴くのと見ないで聴くのと、あるいは歌詞を覚えていて聴くのと覚えていないで初めて聴くのと、その間にある違いはかなり大きなものだろう。しかしどちらが正しいというのでもあるまい。しかしそうすると、どのように聴くにしてもそのものとして聴かれるという、その歌は、果たしてなんなのだろうか。例えば歌詞は何のためにあるのか。私は手元の歌詞を見ないで初めて聴き、歌詞が歌の中で断片になりながら繰り返されるのを味わった。そういう聴き方はある。しかし聞き逃されたにせよ一連の詩はたしかに連続しているのであって、そのことが「断片」をも支えているように思われる。だからおそらく、詩はまずイデア的なものを求める言葉なのであるが、歌はその詩をさらにイデア的なものとして表現するのである。
私は合唱を聴きながら、漸う合唱の意味がわかってくる気がした。キリスト教的合唱においては神的なものの栄光を讃え、そしてその栄光に浴することのできる人間的存在の幸を表現する。日本的合唱においてはむしろ、天へ向かって叫んだり沈黙したりする人間的生の輝きを表現する。当然これは私の感性にすぎないから、私の原体験や私の持つ観念が印象を決定した部分は大きいだろう。特に西洋をイデア的なものの地と見做す観念があることは否定できない。
もう少しでわかるだろう、という気がした。
5. 木
私はさっと歌詞に目を通した。
4木を見ると木はその梢で私に空をさし示す木を見ると木はその落葉で私に大地を教える木を見ると木から世界がほぐれてくる6人々はいくつものちがった名を木に与えそれなのに木はひとつも言葉をもっていないけれど木が微風にさやぐ時国々で人(々)はただひとつの音に耳をすますただひとつの世界に耳をすます※1・2・3・5は作曲されていない。※()内は作曲されていない。
これを聴いて私にはわかった。「ただひとつの音」「ただひとつの世界」、言葉はこれを目指している。それはイデア的なものとして想起されることもあるだろうし、あるいは「もののあはれ」として嘆じられることもあるだろう。しかし耳をすますことが、その「ただひとつ」を聞こうとするのである。つまり合唱は、その「ただひとつ」を目指す地上の生の反復なのだ。ここに至って私は、この「木」という詩が日本語で書かれており、タイトルもやはり「木」に与えられた「いくつものちがった名」のひとつであることに気が付いた。なんと健気な希求、あるいは祈りであろう。あるひとつの言語を用いねばならないという限界は、それ自体であたかも「ただひとつ」を希求してやまない生の躍動であるように思われた――。
* * *
帰りの電車では、快速に乗れば早かったものを、誤って各駅停車に乗ってしまった。幸い車内は明るくすいていて、一連の座席にひとりふたりしか座っていない。私も座って、疲れてぐっすり眠ってしまった。演奏会の始まったのが18時で、それから2時間くらいだったから、昼食から8時間くらいになる。すっかり空腹だった。電車がすいているのは土曜日だからだろう。
* * *
人間の根本的な尊さ、忘れられかけた意志、そういったものを表現し、呼び覚ますのは詩の役割であろう。そういう意味では私の書こうとしたことは、まったく見当違いの身の程知らずということになるかもしれない。しかしおそらく、詩を求める言葉というのがありうる。それはあたかも、歌が詩をイデア的なものとして表現しようとするがごとくである。そして歌の場合には、その歌自体が新たな詩になる。私の言葉は、まったく詩にはならないだろう。しかし詩を求める言葉が人を触発して詩を求めしめる、そういうことはあるだろうと思う。私の単純な目標はそこにあった。
(宮田晃碩)
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