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2014年12月18日木曜日

【連載】前号への評 第10回 宮田晃碩 Akihiro Miyata 『待続――持続の代わりに』


新論説集「マージナリア」運営委員会編集部です。列島各所の豪雪をニュースに聞き、穏やかならぬ冬をひしひしと感じております...。皆様の御無事をお祈りします。

第10回の今回は、宮田晃碩(みやたあきひろ, Akihiro Miyata)『待続――持続の代わりに』への評です。前回につづき哲学的な色の強い文章ですが、評ではそれぞれの仕方で課題が読み取られているようです。

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石丸恵彦 Yoshihiko Ishimaru


 言葉は意味を「待つ」。なるほど、と思いました。むしろ意味を「持つ」という表現の方が不思議に思えてきた。
 しかし、面白いのはその先の展開です。言葉が意味を待つだけでなく、言葉そのものが待たれる場面もある、と論じようとして、著者はなぜか「言葉」ではなく「対話」「倫理」「哲学」について語り始める。
 「対話」の動機は「倫理」を放棄したいという望み、「絶- 望」なのだといいます。読者が欲しいだけで、理解など求めていないのだ、と。とすれば、こんな解説じみた評もまた彼の「絶- 望」を挫いているのでしょうか。評など無い方が良いかもしれません。
 それでも「対話篇」から出発することは可能だ、と著者は言います。それは、哲学が元来フィロソフィア(愛知)の営みだから。知へ、或いは世界へ向けての愛の語りが他者とともに始まるのであれば、対話は哲学になり得る。しかし、本当にそうでしょうか。
 なり得る、と言って著者は筆を置きました。だが、その試み―冒頭の不思議な語り、それと「約束」―は問いかけであり、対話篇ではない。「世界」へ向かう出発点となるような対話がどのようなものか、著者はきっと未だに見出していないのでしょう。
 見出していないものが可能であるというのは著者の信仰なのか。だとしたら、不信心者はそこで躓いてしまいます。理解を諦めてなお「対話篇」に賭けることが、なぜ可能なのか。それを問うていくことが求められる、かもしれません。

▶三村一貴 Kazuki Mimura


 「待つてゐる」即ち開かれてゐる記述は秘教性を排することによつて初めて成立する。開かれてゐるといふ口實のもとに讀者を誘ひこんで離さない蟻地獄のやうな文章もあるが、それは宮田君の志向する「待つ」ではなく、自分の持てるものを全て開陳し、ごまかさず、隠し立てせず、與ふべきものは皆與へるやうな姿勢――君子の生き方と稱するも良し、千利休の「四規七則」を持ち出すも良し、望むならば浮世に棹さして「おもてなし」と言つても良い――の〈言語による世界〉における實現が、ここでは目指されてゐる。そのためにはまづ自分が豐かにならねばならない。知識といふ骨董の並んだ館には趣味の合ふ面々しか集まらないであらうが、縦令陋巷に在つても心豐かな人のもとには友人たちが集まつてくる。そして主客もろともますます豐かになつてゆくであらう。

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次週は、三村一貴(みむらかずき, Kazuki Mimura)『これをおもへば』, 『これをおもふは』への評をご紹介する予定です。

それでは、ごきげんよう。

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