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2014年12月23日火曜日

【連載】前号への評 第11回 三村一貴 Kazuki Mimura 『これをおもへば』『これをおもふは』




新論説集「マージナリア」運営委員会編集部です。年の瀬いかがお過ごしでしょうか。すこし前のことですが今年の漢字が「税」と発表されました。「税」ではなんとも味気ない気がしますが、皆様にとってはどのような一年だったでしょう。

第11回の今回は、三村一貴(みむらかずき, Kazuki Mimura)『これをおもへば』『これをおもふは』への評です。漢文を論じた文章に英語と日本語とで評が寄せられました。2本の論説を併せて45頁にわたる大作でしたが、その真髄はどのように読み取られたのでしょうか。

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鷲見雄馬 Yuma Sumi


Feeling as if watched the impressive dénouement of Hamlet in which all the actors were to be gone after everything was done, what would I add to these dazzling masterpieces written by Kazuki Mimura? I mean, they are such all-inclusive linguistic attempts about what it is to read and write, and everything [that should be written] was done. In this respect they do not need any [hermeneutical] criticisms.
  It is, however, always worthy of having your say on this kind of writings, which makes both of this writer and his readers share the moment of sympathy; if you do not have any comments on it, that means you missed something while reading, and in other words, you failed to read, because that should be what these essays are all about.
  Therefore my comment will clarify what I learnt from them : listen to 〈yourself〉 in yourself, and you could read [/write].


▶徳宮博文 Hirofumi Tokumiya


 私たちは、なぜ学問をするのだろうか。こういいかえてもよい、私たちは、なぜ読むのだろうか。
 三村氏が指摘した通り、「記述内的読み」には限界がある。しかし、読みが方法論として閉じているならば、実証的であれ、客観的であれ、それは「記述内的読み」とならざるを得ない。つまりその読みには正しい結論なるものが存在し、学者は方法論に従って機械的に正しい読みを提出すればよいのである。これでは学者は本質的に計算機なのである。
 だからこそ問いたい、少なくともそのようなことのために、学問をしているのではないだろうと。そのような者は「善き父母となり善き祖父母となって世を去ることができれば既に十分」なのである。
 私は、学問において偉大な者が、その実証性や客観性ゆえに偉大であったということが無いとは思わない。現代において、確かに実証性は評価されるだろう。だから世界に直面するならば、実証性を相手取る必要はあるのである。私は、学者たちは実証性のために学問をしているのではないと信じたい。学者たちは、実証性を道具として大切にしているのである。
 実証性は絶対的なものではなく、学問という思想のひとつの要素であり、思想である。いわば徒弟の段階にある私にとって、実証性について批判的に追求しながら、学問の世界に溶け込んでいこうとしているということが、苦しみの正体なのである。


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次週は、大江弘之(おおえひろゆき, Hiroyuki Ohe)さんによる特別寄稿『若者と大東亜戦争』への評を御紹介する予定です。
(リンク先は本サイト内の、大江さんが代表を務める団体Cubic Argumentへのリンクページです)


それでは、ごきげんよう。

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