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2015年1月16日金曜日

【連載】前号への評 第13回 大川内智海 Tomomi Okawachi 『自然言語に関する2つのノート』


新論説集「マージナリア」運営委員会編集部です。巷ではインフルエンザが流行っております。私も予防接種をしていながらしっかり感染してしまったので(もう快癒しています)、皆様どうぞお気を付けください。


第13回の今回は、大川内智海(おおかわちともみ, Tomomi Okawachi)『自然言語に関する2つのノートへの評です。やや専門的なテーマながら、多少知っていれば専門外からも概要はつかめる、そのような論説でした。専門外の読者として何か評をするということは、はたしてどのような意味を持つでしょうか…?

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▶宮田晃碩 Akihiro Miyata


 実は第2 号では、大川内君も私も「意味論」について書いている。だが言うまでもなく両論はアインシュタインとハイデガーほども違うものであって、この違いの本質を知ることは重要であろう。まず「自然言語」という名称自体がこれを分析的に扱うアプローチを含意しているが、その目指すところは二面から記述されると思われる。ひとつには扱いやすく意義のあるモデルを構築すること、もうひとつにはそのモデルが「自然言語」を可能な限り正確に写し取ること、であろう。私はちっとも詳しくないからここまでもここからも全て想像であるが、この二面に即して課題が提示される。ひとつには何如なるモデルが有用であるか、もうひとつには「自然言語」といって指示されるのは果たして何如なる現象か、という課題である。私のものする「意味論」が前者に至るには遠い迂路を辿らねばならないが、後者には比較的近い。だがそこでも、私がことばと直に対話しようとするのに対して、大川内君は自然言語を「扱おう」とする。彼の方が社会の役には立ちそうであるが、私とて人間の為にやっているという自負は捨てていない。社会に繋がっていく道筋が異なるだけのことである。
 これを問題意識の違い、態度の違い、「対象」の違いということは容易であるが、その違いが何を意味するかというのは難問である。だが我々は互いに話すことができるし、そこで何如なる対話が可能かということが、私の課題なのである。

▶吉村勇志 Yushi Yoshimura


 ある文章を理解するのにある人が適切であるかどうかを判断するのは、極めて難しい。大川内氏の文章は、これの好例である。評者として私が選ばれたのは、彼の議論が理系、正確には情報科学と量子論の概念に則って書かれているからである。理解する為には前提知識が必要という立場からは、尤もなことである。しかし、その問題意識は自然言語の性質にあるので、私がそれを十分に共感できるかと言えばそれは難しい。理解する為には動機が必要という立場からは、私はあまり適当でないと言うこともできる。よって、以下、私の拙い理解を開陳せざるを得ない。“ 計算機言語の意味論から” は言語に関して勉強している人ならば、少しプログラミングを齧れば理解できる範疇であると思われるので、後日宮田氏あたりがプログラミングをしてから評価するのが良いだろう。“ 量子論的発想から”においては「人によって単語と事物の結び付きに揺らぎがあるので、単語と意味の結び付きを一対一の固定したものにすべきでない。そこで、確率という概念を導入する。」というのが彼のアイデアだと私は理解している。これに関して、現状認識には賛成であるが、確率の導入には賛成できない。ある瞬間ある状態ある個人に単語とその意味について質問をしたら、必ず同じ反応になると私は思うからである。これは確率では説明できない。意味の揺らぎは、個人が常に学習・変化していることから生じると私は考えるのである。


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次週は、鍵谷怜(かぎたにれい, Rei Kagitani) 『二重奏の愛 ――アルチュール・ランボー「錯乱Ⅰ」』への評を御紹介する予定です。

それでは、ごきげんよう。

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