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2015年1月30日金曜日

【連載】前号への評 第15回 吉村勇志 Yushi Yoshimura 『工学と社会の在り方について』『工学とその安全性、原子力等について』


新論説集「マージナリア」運営委員会編集部です。東京ではすこし雪が降りましたが、蠟梅はもうすっかり香っていますし、梅もちらほら咲いているようです。まだまだ寒いものの春が間近に感じられます。

第15回の今回は、吉村勇志『工学と社会の在り方について』『工学とその安全性、原子力等について』への評です。二本まとめての評になりますが、二本とも、時を追って吉村君の思索の跡がつづられたものでした。専門性と体感とのあいだにある文章、と言えるでしょうか。

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▶鎌田淳 Atsushi Kamata


学生であれば、講義で新しい知見を得ることで、より深い洞察に至った経験を持つものは多いと思う。日々の経験や、経験によって刺激された思考から、以前の意見を変更することも、またよくあることだ。吉村氏の文章は二篇とも時系列でまとめられているから、狙い通りというべきか、やはり考えの変遷が見られる。本文中で言及されているような、彼が受講した講義や自身の個人的な経験によって、心境の変化が起きたのだろう。読み手は各論に対して賛否を提出するのは避け、彼の考えの移り変わりに注目するほうが良い。
 しかし、それぞれの文章は同一のテーマで書かれていないから、読み手は間接的にしかそれらの変遷を読み取ることが出来ない。また、変遷のきっかけとなった出来事なども文中で網羅されているわけではないから、突然考えが変化したようで、読み手に戸惑いを与えているように思う。前者については、全体を俯瞰した視点からあとがきを追加することでクリアになるし、後者についてはそれぞれの論考に対して後から短めのコメントを付け加えると良いのではないか。


▶宮田晃碩 Akihiro Miyata


 社会について語るということは、存外難しいものである。世間には社会について語る言葉が溢れているが、これが我々を、出所も分からない、従って何処を向けば正面から向き合うことが出来るかも分からない諸見解のうちに閉じ込めようとする。あるひとりが語る言葉でさえ、我々はそのような「巷談」に一見解を加えるものとして理解しがちである。語る人自身に向き合うということの意味は大抵のところ、掴み取られないでいる。
 吉村君の文章についても、これを「一見解」として扱い、ある問題系への「客観的」な解答案であると見做すことはできよう。私は問題系を確りと把握できていないが、吉村君の主張に於いて肝要なのは「工学は人間の営みである」ということであろう。このテーゼを念頭に置けば、読者は彼の文章を読み迷うまい。だがその際問題になるのは、彼の主張が何処から何処へ向けられたものなのかということである。議論には問題も必要だが、それ以前に議場が必要である。
 議場を捉え損ねれば、我々は再び世間の「巷談」に押し流される。例えば彼のある主張に対し「大衆はそんなに賢くはない」という主旨の反論は可能だろうが、そう反論する者は果たして何処に立っているのか。吉村君の文章は、まさに読者が賢くなることを要請しているのである。工学の本質は実践にある。そして工学者の思索も実践にある。その思索の現場に立ち返ることこそが、我々読者に求められる実践であろう。

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次週は、Hani Andary (ハニ・アンダリー) "American's value for personal opinion" への評を御紹介する予定です。次回からは英語記事に対する評になります。

それでは、ごきげんよう。

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