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2015年1月7日水曜日

【連載】前号への評 第12回 大江弘之 Hiroyuki Ohe 『若者と大東亜戦争』



あけましておめでとうございます。新論説集「マージナリア」運営委員会編集部です。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

第12回の今回は、大江弘之(おおえひろゆき, Hiroyuki Ohe)さんによる特別寄稿『若者と大東亜戦争』への評です。新論説集にあって実は珍しい、政治的な内容を含む論説でした。主義主張の枠組みといったものに回収されない評が目指されたと思われますが、果たしてどうでしょうか。

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▶徳宮博文 Hirofumi Tokumiya


 大江が指摘するように、作品それ自体は常に思想的に中立であり、『永遠の0』・「永遠の0」もまた思想的に中立な作品として読むことは可能である。思想を形成しているのはむしろその読解であるからである。
 アジア・太平洋戦争の思想性について、これが悲劇として語られているという実感は私も大江と共有する。そして私がこの文章から読解した要旨を一言でいえば、大江は、作品そのものの思想的中立性を指摘することで、このアジア・太平洋戦争の思想を逆転させることを試みている。この思想を逆転させる手法は、私が前号p.27 で指摘したように、極めて典型的なものである。
 しかし私はこの文章を評価できない。私ならば常に悩んでしまうだろう、それならば逆転させたあとのその思想は自分にとってどのように特権的であるかということを。大江の文章にはそのためらいや自己分析の視点が無い。
 単刀直入にいえば、この文章が扱っている問題は、典型的な、いわゆる政治的な文脈において右翼と左翼が対立している問題である。世間にあふれているこの種の言説をみて私が思うのは、彼らは基本的にロールプレイに堕しているということである。「右翼」「左翼」という役割を演じることに徹している者は、自身の思想を反省する可能性が無く、自身の思想を変化させる可能性が無く、そこには対話の可能性も無い。
 大江は靖国神社に参拝に行くという。最後の段落、この典型性からは、大江の姿はまだ見えない。


▶宮田晃碩 Akihiro Miyata


 「若者たちには、大東亜戦争をフィクション化して見させるのではなく、反省すべき材料として学ばせるべきであろう」(p.5)。これがこの文章の主旨である。フィクション化ということで指しているのは「当事者ではないものに対して、当事者意識を持たせ」ることであり、これには「当時の人々が何を考えていたのか追体験させる」ことが対置される。その上で「大東亜戦争を題材に国家統治の観点から近代の我が国の歩みを」「何故負けたのかという点」について反省すべきだというわけである。
 しかしある出来事が「フィクション化」されるか否かに重大な分岐があるとはいえ、「テクスト」となることは避けがたい。それは既に語られるものとなる以上、寧ろ「テクスト」とされねばならないのである。「追体験」とはまさに追" 体験" なのであり、他の一切の体験と同様、自らの生に於いてその意味が掴み取られねばならない。それゆえ戦争の出来事を「フィクション化」する動きもそれを甘受する向きも、何か客観的な学習材料とのみ見做す態度も、同じく非自覚的な方法であると言わねばなるまい。何事かを語るにはまず自分が当事者とならねばならぬ。『永遠の0』の百田氏はあの小説を書くことに於いて当事者となったに違いない。大江氏はまさに「若者たち」に語りかけるこの文章に於いて当事者となるのだし、この文章に応答する中で私は当事者となる。そしてこの営みこそが「現実の生」ではなかろうか。


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次週は、大川内智海『自然言語の意味論に関する2つのノート』への評を御紹介する予定です。

それでは、ごきげんよう。

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