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2015年3月7日土曜日

【連載】前号への評 第19回 鷲見雄馬 Yuma Sumi "Against translation"


新論説集「マージナリア」運営委員会編集部です。もういい加減、この冒頭で季節を確かめるのにも飽きてきた頃ですが、しかし春の訪れはひとつひとつ確かめていく趣があるので良いですね。この頃は霞が立つので、電車の窓から富士山の見える日が減ってきたように感じます。

第19回の今回は、鷲見雄馬 "Against translation" への評です。「反翻訳」といいながら翻訳作品を引用していたり、著者自身が母語でない英語で書いていたりと、読者の興味をかきたててやみません。「翻訳」という営みが単なる技術ではないということを、身をもって示す文章だったように思います。

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▶ブルーク・ニューマン Brooke Newman


Once again I feel overwhelmed reading Against Translation. One year ago I read it for Yuma whilst it was still in the editing stage, and I found myself having difficulty following the expansive stream of concepts and theories. Reading it for a second time I see the intensity of Yuma's passion for discovery and understanding, for forming immpressions and opinions. I can see Yuma's challenge in trying to condense the content of his well oiled mind into the frame of an essay, I expect that given the chance we could see it developed into an unabridged disquisition that everyone can take a piece from. Go Yuma.

▶三村一貴 Kazuki Mimura


  英語で書いても鷲見君は鷲見君であり、最も深い處にはやはり日本語による思考が流れてゐる。父母なしに子は生まれないやうに、母語による〈原體驗〉――母語を通したもののみ〈原體驗〉と稱し得る――無しに思考・思想は生じ得ない。とはいへ個別言語の[表現上の]特性に執着してなされた思考は多くの場合レトリックに終始する。自分が日本語で思考してゐることを自覺するには日本語のみの世界に留まつてゐてはならず、ここにおいて外國語は母語を映し出す鏡として輝く。
  翻譯の問題は言語に關係するのみではなく、汎く文化事象の交流の際には必ず翻譯が介在する。假に言語の問題として考へた場合、畢竟言語によるやりとりは〈異化〉の絶えざる連續であり、翻譯はその一體に過ぎないと言ふこともできるが、〈異化〉の質に關はる記述論的な諸問題と言語表現の移し替へに關はる技術的な問題とは明確に區別して扱ふ必要がある。翻譯とは〈記述のレベル(階梯)〉の調整をめぐつてなされるゲームであり、斯かる場において各言語の付随的[言語學的]特性は決定的な意義を有するものではない。
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次週は、Emelia Dawson (エメリア・ドーソン) "Narrative Truths on Medical Marijuana" への評をご紹介する予定です。

それでは、ごきげんよう。

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