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2015年5月20日水曜日

【委員連載③】 無題1



 Carlo Gesualdoという後期ルネサンスの作曲家が残した2編のO vos omnesのうち、先に書かれた方、1603年に出版された5声部のレスポンソリウムは、音楽史上における彼の作曲の特異性が如実に表出している作品である。曲の全体を通して半音階的な進行と対斜による奔放な転調が多用され、しかも随所に強烈な不協和音、具体的には掛留による短2度(あるいは長7度)の音程が鏤められている。このような態度はルネサンス音楽の枠内におけるある種の極北であり、調性と通奏低音を基盤とするバロック音楽においては顧みられず、やがて「現代音楽」の時代に至るまで長く忘れられていたものであった。
 曲は切々と語りかけるように始まる。一度目はソプラノを除く4声で、二度目は全5声で“O vos (omnes)”と繰り返して呼びかける、しかしたったそれだけの間に、ここは曲中で初めて和音が移る箇所なのであるが、既に対斜が挟まれている。そこには最早、音楽の依拠すべき調性など存在しない。聴衆はこの瞬間、曲に耳を傾け始めたまさにその途端に音律の中空へと投げ出されてしまう。
 そこから再び対斜が起こり、続く“qui transitis per viam”の一節で曲は一瞬だけ、調性を取り戻したかに見える。しかし唐突なフリギア終止が聴衆の休息を許さず、直ちにこの曲で最も鮮烈な印象を残す“atendite et videte”へと突入していく。
 この曲を初めて聴くとき、誰がこれほど無謀な展開を予想しようか。アルトの掛留音を5度下降で押し下げて沈んでいたソプラノが、入れ替わるように5度跳躍から駆け上がって最高音に達していたアルトのそのまさに半音だけ上に新しい音を叩き込んでいく。空を引き裂かんばかりの、痛烈な不協和音。翻弄されたかのようにころころと細かく動き回るアルトをよそに、ソプラノは陶然と半音を上がってこの一節を収束させる。
 そこから第二テノールとバスの先導で始められるのは、執拗なまでの“si est dolor”の繰り返しである。長和音の第一転回形も厭わずに各声部がほぼ順次進行で動いていく中には、長2度や短2度の掛留、あるいは対斜が次々と差し挟まれていく。そうして混迷を極めた先で不意に第二テノールとバスが同時に消えて、上3声だけになったところに聞こえてくるのが、ソプラノと第一テノールによる2連続の澄んだ掛留と解決なのだ。
 かくして曲はようやく動きを収めていくのだが、最後に残った“sicut dolor meus”に付された和声は安息よりむしろ停滞を、各声部が半音階に沿ってゆっくりと遷移することで、いつまでも尽きない不穏な疼痛を呼び起こさせるようなものである。
 O vos omnesの歌詞自体は哀歌の1:12から引かれており、イェルサレムに降りかかった災禍にも素知らぬ顔を決め込んでいる同胞の通行人たちに向けて、預言者がその悲痛を我が身のことと思うよう訴えかける場面のものである。Gesualdoは世俗的なマドリガーレにも通じて情感の表現にも達者な作曲家であったが、彼はこの曲を構成するにあたって「心を留めて見定めよ」という預言者の希求に旋律上の頂点を置くことを選んだ。そして既に見た通り、この曲において最早それは、絶叫と呼んで差し支えのないものになっている。

 ――果たして我々は、他者の痛みを知ることができるだろうか?

 ところでO vos omnesはレスポンソリウムであるから、曲はここから更に続いていく。しかしGesualdoのこの作品においては単純に“atendite et videte”の一節が再現されるのみで、そのまま“si est dolor”以下の部分に戻って終曲となる。それぞれの周回で二度ずつ繰り返される“sicut dolor meus”の最後は、そこだけ取り出してみれば何の変哲もない変終止になっており、特にあの痛切な不協和音を再び耳に焼き付けられた後では、一抹の安逸さえ感じさせるかもしれない。それが哀歌の解釈にそぐわないのだとしたら、あるいは作曲者自身の「悲痛」に対する情実の表出だったと想像することもできよう。

 ――果たして我々は、他者の痛みにどこまで近付くことができるだろうか?

 ごく個人的な話をするのなら、同じO vos omnesなら私はVictoriaのレスポンソリウム集に収められた4声部の曲の方を好むし、半音階的な技法を駆使した同時代の作品としてもLasso組曲Prophetiae sibyllarumに軍配を上げる。しかし前掲の文章にも現れた「痛み」という言葉から真っ先に想起させられたのは何を差し置いてもこの楽曲であったので、本棚の奥に積まれていた古い楽典を引っ張り出して、かく逐語的な拙い注釈を試みたものである。




【委員連載④】につづく
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