「その風土から自然と聞こえてくる音樂があるやうだ。鳥が囀りを、木が葉擦れを、水がせせらぎを持つてゐるやうに、人は言葉(聲)と樂器とを持つてゐる。ライン川の向かう岸からワルツが聞こえてくるのは、長江の兩岸から猿の聲が聞こえてくるのと同じことなのかもしれない。
では我が日本の山川からはいかなる音樂が聞こえてくるのだらうか。笙や篳篥だらうか、或は箏や三味線だらうか。どうもわたくしには、人の歌聲が聞こえてくる氣がする」
上の三村一貴君の随想は、じつに現代人の音楽観に関して大変ゆゆしき第二の問題を提示している。すなわち、そのような音楽を感受することが現代人には難しくなってきているということである。こういう自分もまた例に漏れず、先日、日本庭園を散策するに耳許をそこはかと漂う音楽は、独りイタリア歌唱やバレエ音楽ばかりであった。これはもちろん笑止千万甚だしい一例であるが、日本庭園を見て三村君のいう「日本の音楽」を耳にする日本人が一体何人いることであろうか。あるいは観念的に邦楽のいくつかを想起する者もあろうが、それは彼のいわんとするところの音楽ではあるまい。
一般に音楽はもっとも観念に結びつきがたい。われわれが見たものと聴いたものとを乖離して考えてしまうのも、そもそも言語的連繋に欠けるからである。してみると、われわれは音楽を聴いているのではなく、音楽に踊らされているのかもしれない。音楽に踊らされた人間に、真の音楽を聴く余地はない。ーー
ーーそんなことを、私は人声なき風雨の秋吉台を闊歩しながらふと思ったのであった。人蹤の絶えた世界がわれわれの心象に影を落とし、必然見る世界そのものの印象を取捨させる、その陰鬱な自己暗示の機構が駸然と抉り出す言語風景は、真に暴露的な、人間の形骸そのものである。ヨルダンの砂漠以来、私は人間であることを忘れさせ、その絶対的事実をさえ脅かすような非言語的存在だけが、私をして語らしめるような気がしている。
(鷲見雄馬)
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