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2014年8月18日月曜日

音楽と舞踊


 バレエは人を驚かすものではない。人を動かすものである。仰天のあまりに観客が腰を浮かすようなものではなくて、人の心を動かすものである。
 その点、コンクール業界におけるバレエは、あまりに発想が乏しい。点数を獲りにいくような踊りがどれだけ思考をワンパターン化させるかということの好例である。音楽の流れも考えずにここかしこでポーズを決める、たくさん回転する、バランスをできるだけ長くとる――いまその弊を挙げるに遑(いとま)がない。
 音楽には音楽の意味がある。すぐれた音楽は、それ自身が物語の通奏低音として物語を仮構するため、物語を知らない観客が聴こうとも、心の琴線に愬える。なにを言おう、音楽は細密に織りこまれた感性の絨毯なのである。さまざまに屈折する感性を「そのまま」に解析する手続きが作曲ならば、そのプロセスを「仮り」に解体する試みが演奏だといえよう。
 解体されるたびに揺るぎない極彩色を再現する音楽があればこそ、振り付けはそれを物語への唯一の手がかりとして、この芸術的全体主義の上座に君臨することができる。そのような振り付けの存在必然性を保証できるのは、振り付けの体現者である踊り手をおいて他に居るまい。踊り手は当然、音楽の絶対的な再現性に対する信奉者であると同時に、割れ物でもある音楽の虚(そら)を睥睨する、奇特な鷹の眼を持たなければならないのである。
 コンクールではしばしば、禽獣に睨まれて金縛りに遭っている自分の姿にすら気附く様子のない、あるいはその自覚をすら抛棄してしまった、忙(せわ)しげな燕雀の影が観客の面前を掠めていく。しかし哀れみを感じるよりもさきに、classical ballet自体がすでに遼遠としてその姿をみせないことに、果てしない哀しみを覚える。


古代ギリシャの劇場
(鷲見雄馬)

*この文章は無論、コンクールに出ている真摯なダンサーたちを無暗やたらと糾弾するものではないことを断っておく。むしろある種の口惜しさが私をかくも堰き立てたにすぎないのである。*


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