今日は快晴、やや北風の強い朝であった。良くも悪くも冬らしい朝の数時間を、私は郷土史料の繙読に費やしたのであるが、そのわけは以下の通りである。
私の実家は、千葉は北総の白井市で、かつては印旛郡白井町といわれた地域に位置している。さてこのところは、20分ほどかけて通いつけの接骨院を出入りする毎日なのだが、その途上に異様な石碑があるのを発見したので、今日は帰路これを仔細に眺めてみたのである。
その一角は、白井市の中でも「とつこん」という奇妙な地名をもって呼ばれる、謎の多い区域である。そこに身を寄せ合った3、4基の碑は、道路に面した小高い地面の上にひっそりと佇んでいる。自動車を運転する人々からは往々見逃されるものとみえ、開発が進む地域一帯にあっては、真新しいマンションの壁の白さに囲まれながら、陽の光におおわれて黒々としている。
中央に聳えるのは「馬頭観音供養塔」である。これは大人の背丈ほどもあろうかと思われた。その両側にもやや背の低い2基があり、右手は「海陸軍人戦没者為霊魂」、左手は「天下太平国家安穏 一億供養塔」というふうに刻まれている。奇妙なことに、これらが建てられた時期は全く一致しない。碑陰刻をみるに、後者2基の建てられた年はそれぞれ、明治35年(1902)、同28年(1895)とあり、「馬頭観音供養塔」に関しては文化乙亥歳五月吉祥日とあるから、西暦1815年に造られたということになる。ひとえにこの正体を探るべく、白井の誇る市立図書館へ足を運んだのであった。
まずは戦没者の碑であるが、これが日清戦争の戦没者を悼むものであるのは間違いない。江戸期以来千葉県随一の勢力を誇った佐倉からは、事実、多くの人間が現地に出陣したようである。次に一億供養塔を精査すると、この碑を建てたのは一億会という地元集団らしいことが判明した。これは遡ること数百年、宝暦8年(1758)に紀州より浄土宗の高僧徳本上人がこの地に来たったことに由来するという。トツコンという地名は、このトクホン上人に基づいていたのである。一億会はいわゆる講中(こうちゅう)、神仏に参詣する信者の集まりのことである。江戸時代は毎年祭祀をとり行っていたようだが、大正13年を最後に、以後の消息は判然としない。
問題は、馬頭観音供養塔である。「印西牧の原」といった地名が周辺に残っていることからして、江戸時代に「牧(まき)」と呼ばれたこの地域の死馬を弔ったものであろうか。はっきりしないが、印旛方言に関する書物を繙くと、戦前までは犬猫の死骸を葬る場所を「ソーマンド」と言ったことが記されており、元来は葬馬所を指したのであろう、との見解が示されている。大方この筋のものと見てよいであろう。
印旛方言というのを、私はこれまで耳にしたことすらない。これらの多くは、テレビの普及によって標準語に駆逐されていったようである。たった10年の昔にはこの地に生い茂っていたすすきも、かろうじてありし日の面影を偲ばせるばかりになってしまった。よく定年を迎えると突然思い出したかのように、ふるさとの歴史をたどる人が多いとは言うが、これらの石碑のごとく、ある場所に半永久的に留まるようなものが、石造物のみならず現代に似合う形式によって遺されていけば、その記憶を少しくも共有していくことはできるであろう。ところが昨今では記録と記憶のデジタル化が、いよいよ凄まじい。精神はさることながら、モノの乏しい時代がやってきたのである。
(鷲見雄馬)
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