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2014年6月15日日曜日

【連載】前号への評 第2回 - 渡来直生『現代仮名遣いの問題點』


 どうも、論説集発行委員会編集部です。いよいよ夏至が近づいてきました。編集長のいるアムステルダムでは、朝5時ごろに日が昇り、夜10時ごろに日没を迎えています。
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 さて、第2回は渡来直生(わたらいなおき)君の『現代仮名遣いの問題點』です。この文章に関しては、古典一般に詳しい三村君と機械言語に秀でた山口君という対照的な両者が評を寄せてくれました。2人の視座を比較してみると面白いかもしれません。

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▶三村一貴


 この論説がこの論説集に提出されたからには、國語學關係の雜誌に提出する時とは異なる書き方・讀み方がなされて然るべきである。そこで幾つかの視點を呈示して參考に供したい。
 ○日本語表記の特性 現在の日本語は漢字・平假名・片假名を混用し、時にはラテン文字等をも用ひる。且つ「現行の規範的な書記様式には、句読点が不可欠の要因として組みこまれている」(小松英雄『仮名文の構文原理【増補版】』240頁、笠間書院、2003年)。假名遣ひの體系が不整齊でもそれなりに通用してゐるのはこのためである。
 ○文字と言語との關係 飽くまでも言語が前、文字は後である。極論すれば、言語が何であるか分かれば文字がどうなつてゐようと解讀することはできる。ロゼッタ・ストーンの解讀を想起されたい。
 ○文字の役割 文字の役割は畢竟表語にある(河野六郎・西田龍雄『文字贔屓』213~216頁、三省堂、1995年)。假名も複數の文字の連續が綴りを形成して語を表してゐる。綴り内部での文字の使ひ方に多少理不盡なところがあつても、語の同定に支障を来さなければ問題ない。
 假名遣ひに關する世上の議論は、個々人の趣味の對立なのか、學問的な志のあるものなのか判然としない。論説集といふ場において斯かる議論を繰り返すのは得策ではない。重要なのは、如何にすれば議論を豐かにし現實と結び付けられるか、思案することである。これは原文に注釋を付ける時に行はれる思考でもある。

▶山口隆成


 本論で現代仮名遣いの問題点が指摘されている。建前と現状の矛盾、表音表記、矛盾を採用する人々の姿勢。問題点を指摘するのはいい。しかし、問うことばかりに力が入っていて、それが何に繋がっていくのかを論じることができていない。ほんの一例だけ挙げるが、「現代仮名遣いはもっとも重要な法である憲法の『法令のよりどころ』として機能してゐない」と言うのならば、現代仮名遣いで書かれた法令がどのように基盤を揺るがし得るのかについて精細に論じていくことができるはずだ。そういうことをしている部分がない本論は、論とは呼べない。
 問うばかりで答えが用意されていない文章は不安定だ。つまり、読者は当然欠落している答えを補おうとし、おのおの異なる結果を得る。不安定な文章は有益なこともあるが、本論のように特定の立場を主張するような文章では悪手だろう。問題が繋がる先が見えなければ、その問題は無価値と見なされる。問題点の重要性を理解できないのは読者の落ち度で、価値を共有できる人間にだけ読んでもらえればいいという考え方も出来るけどそれは内向的で少し寂しく思うし、問題点さえ指摘すれば読者は勝手に論者の望んだ帰結に達するはずだと考えるならそれは驕りからくる怠慢だと思う。
 それぞれの問題点は、どれもそこを起点として論を作り上げることができるものだろう。今度書く時は問題の列挙ではなく論を、つまり問題から帰結までの話の道筋を是非書いてほしい。

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 次週は、鷲見雄馬(すみゆうま)の『繋愁録』の予定です。それではまた!

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