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2014年6月22日日曜日

【連載】前号への評 第3回 - 鷲見雄馬『繋愁録』


 論説集発行委員会編集部です。梅雨明けが目前に迫っていますが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。

 第3回は鷲見雄馬(すみゆうま)の『繋愁録』(けいしゅうろく)です。一見変わった文章なだけに、徳宮三村両君の反応もまた目に浮かぶものがあります。この「前号への評」から元の文章を想像するのも一興かもしれません。
 この新連載についてのご意見等は、ウェブサイト右下の“Have your say”、または本委員会メールアドレスにまで、よろしくお願いします!

* なお徳宮君の文章に関しては、ブログの形式上やむをえず傍点部分を斜体にて表現してあります。あらかじめご了承ください。

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▶徳宮博文*


 この文章は、『新論説集』においては異質で、一見とらえどころがないようにみえる。例えば、この文章をリスボン論として、アムステルダム論として読もうとしても、どうも要領を得ない。というのも、この文章は、なにかを論 じたり説 明したり、つまりなにかをいおうとする ものではないからだ。
 この文章は、思ったことをそのまま 書いているという意味で、日記であり、彼そのもの を表現しているという意味で、芸術である。だからこそ、我々もまた、この文章の先に彼のすがたをみて、この文章を読まねばならないのである。
 二つの他者がわかりあう、とされるためには、なにか共有されている、とされているものが必要である。この文章は、場所によすがをもとめる試みであった。つまり我々は、我々のリスボンに、我々のアムステルダムに、それが彼のでもあると期待して、彼のすがたをみるのである。
 そのもの そのまま 書くと、我々が日常的な理解をするのに要る多くのこと、すなわち彼にとっては透明化されていて、我々は知らないこと、は書かれない。彼と我々とは状況が違う。そうであるならば、文章を読み続けるとともに、現実を読み続けることが、よい読者にもとめられているのではないか。

▶三村一貴


 嘗てわたくしは好んで俳文風の文章を書いたが、近頃ではすつかり書かなくなつた。眼に映るものは結局描寫することしかできないと思ふやうになつたからである。描寫や説明だけでは論説にならない。幸か不幸か、わたくしが論ずることができるのは言葉だけになつてしまつた。
 だが鷲見氏はある場所に――「地球」と〈世界〉とが交はる處に身を置きながら[/身を置けばこそ]、何かを論じてゐる。何を論じてゐるのか、それは魅力ある謎として殘しておかう。
 彼の見た風景は彼にしか分からない。或は言葉にしてしまへば彼もその風景を忘れてしまふかもしれない。しかし言葉にしてくれたことで、わたくしは彼の見た〈世界〉を見ることができるやうになつた。僅か二週間足らずのことを記しながら、何と様々な〈世界〉を見せ、我々を誘つてくれることか。

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 次週は、三村一貴(みむらかずき)君の『時字考』です。それではまた!

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