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2014年6月30日月曜日

【連載】前号への評 第4回 - 三村一貴『時字考』


 論説集発行委員会編集部です。いよいよ7月、編集部は第3号に向けて着々と準備を重ねていますが、みなさん夏を迎える心の準備はいかがでしょうか?

 第4回は三村一貴(みむらかずき)君の『時字考』(じじこう)です。第2号に掲載された同君の『これをおもへば』・『これをおもふは』はこの『時字考』を端緒としているため、彼を一大三連作の執筆へと駆り立てたのは何だったのか、そのヒントを「前号への評」に見出すことができるかもしれません。
 これまで同様、この新連載についてのご意見等は、ウェブサイト右下の“Have your say”、または本委員会メールアドレスにまで、よろしくお願いします!

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▶宮田晃碩


 「これをおもへば」「これをおもふは」(今号掲載)で著者は既に、この論説からの転換を示している。それは学問に要求されるあの所謂「新しさ」を志向するというのではなくて、著者がまさに「記述者」たらんと欲する「記述者」であるが故のことである。「転換」というのはその意味に取られねばならぬ。そこではこの説が取り下げられるのではない、〈記述のレベル〉が違っているのである。然りとすればこの「時字考」は最早棄却され、化石として参照されるに過ぎぬものとなったのか。言葉に、何か決まったものの伝達という働きをのみ見る者にとっては、そうかも知れぬ。そういう者は行間を書くということを知らぬ。意味を待つということを知らぬ。ことばを待つということを知らぬ――だがいまや、この問い掛け自体が自問自答の罠に嵌ろうとしていることは明らかであろう。「出会い」に理由は無い。私が何か問うならば、聞えてくる反響は恐らくあの“Tolle, lege”.( 取りて読め)である。この「答え」は私が用意するものではない。それにも拘わらずその声は、間違いなく私に向かってくるのである。文章というものはそれを如何に理解したとて厳として目の前にあり、しかも「著者がこれを書いたのだ」という仕方で、ある。それ故「時字考」に於いて私は、作者と対話することが出来る。そこから何処へ向けて出発するかは、全く読者に――それも、既に嘗ての彼ではないような「読者」に――委ねられている。

▶吉村勇志


 三村の文章はいつも絶賛されている。しかしところでこの文章は本人が合評会でつまらんものだと言った訳であるが、信者には刺さりはしたのだろうか。私にはこの文章が何なのかさっぱり分からないが、その論評を任されているのは幸か不幸か。従ってここで問題とするのは内容ではなく、何故価値が分かりはしないものが称えられるのかそのメカニズムに対する考察である。このような問題は一般には経済学の考えを引いて希少性故と答えるのが常であると思われるが、私はそうでないと思う。希少性という点で言えば、例えば怒首領蜂大往生で真緋蜂改を倒すとかリュウグウノツカイを水揚げするとかの方が珍しい筈だ( 特に前者は二人しか例が無く、その上達成には七年半を要している)。希少性より重要なのは、コミュニティにおける価値の共有性である。要は論説集というコミュニティのメンバーが基本的に大学入試経験者であるからペーパーテストの一ジャンルにカウントされる漢文が偶像化しているということである。学者の世界は同じ研究分野の他の学者に認められるかという承認を競うというのが本質である為、同じ例は挙げれば切りがない。その為このような閉じたコミュニティは情報カスケードのように考えが先鋭化しやすいのではないかと推測するが、だからと言って高度複雑化したシステムに外部からの観察を入れるのは困難である。学問と社会との接続の難しさの一部はこれと同じものであろう。

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 次週は、日野公純(ひのこうじゅん)君の『断章的序説 ―笑い―』です。それではまた!

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