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2014年6月7日土曜日

【連載】前号への評 第1回 - 宮田晃碩『学問的文脈について』


 こんにちは。論説集発行委員会編集部です。『新論説集第2号』には、『創刊号』に載せられた全自由投稿に対し、それぞれ2人ずつによる短評が掲載されました。今後その2つの評を、1週間ごとにアップしていきます。
 この新連載についてのご意見等は、ウェブサイト右下の“Have your say”、または本委員会メールアドレスにまで、よろしくお願いします!

 今回は、本活動のリーダーである宮田晃碩(みやたあきひろ)君の『学問的文脈』についての評です。自由投稿についてのオンライン掲載は目下検討中なので、原文は実際の冊子を手にとってご覧いただきたいと思いますが、こちらの2人の評を読めば、おおよそ論説の雰囲気や、宮田君が言わんとしたところを想像できるのではないでしょうか?

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▶小田拓弥


 この文章の記述の形式について言えば、筆者が筆者自身の文章や言い回しを解釈することによって論を展開していく場面が多い点が特徴的であり、これは解釈の一つのあり方としてそれ自身興味深い。
 内容についても一つ述べたい。この文章では、説が作者によって学問的文脈に投じられ、それが学問的文脈によって認められる、という過程が問題になっているが、学問の営みは必ずしもそのような単純な形をとるとは限らないのではないだろうか。説が明確な「作者」を持つとは限らないし、また、「説」というはっきりしたものが形成されるとは限らない。さらに、ある種の政治的なパフォーマンスが学問的文脈に対して作用することもあるだろう。「投じられる」については、「説が『投じられる』とは一種の比喩であり、説と学問的文脈との様々なかかわり方を包括した言い回しである」と言われるかもしれない。それならば、次のように言い換えてもよい。「説が学問的文脈に投じられた」か否かが問題とされる段階があるのではないだろうか、と。そこにおいてもまた「解釈」が問題となる。また、「この文章においては、初めから、特定の仕方で説と学問的文脈がかかわる過程だけが問題となっているのだ」あるいは「定義上そのようなものだけが『学問』と呼ばれるのだ」と言うとしても、この文章がそのように振る舞うということが一つの権威として働きはしないだろうか。


▶田中涼介


 この文章で想定されている人文学、とくに哲学は形式科学や自然科学のように学問=知識・言説のネットワークのノード=「説」の正当性を担保するきちんと定められた手続きを持たない。だから、ただ「昔から哲学と呼ばれている文脈を汲んでいる」という以外にそれを単なる戯言の集まりと区別する有効な方法がない。加えて、説と文脈の関係をめぐる議論じたいが哲学の範疇に入ってしまうため、自己言及パラドクスじみたものが生じて、余計に話がややこしくなる。ここで筆者は「責任」という概念でこの「何でもあり的状況」を押しとどめようと苦闘しているが、僕はこの企ては構造上成功しえないという予感を抱いている。門外漢の気軽さで出鱈目を言っていると思っていただいて結構だが、実際のところ哲学は「連綿と文脈を受け継ぎ続けている」というこの一点によってある種の神秘的な存在価値を保っている、いわば「秘伝のタレ」的学問ではないか(そして、それで十分なのではないか)とすら思っている。これをディストピックとか思考放棄とか思うのは個人の勝手だが、ある言説が一個体のHomo sapiens にある信念を与え、ある行動へと突き動かすとき、その言説が厳密に定義された公理と推論の体系とか実験事実とかによって支えられていようがいまいが何も変わりはしまい、というのが僕の立場である。

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 次週は、渡来直生(わたらいなおき)君の『現代仮名遣いの問題點』の予定です。お楽しみに!


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