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2014年7月14日月曜日

【連載】前号への評 第6回 - 創刊号総評(三村一貴)


 論説集発行委員会編集部です。みなさんいかがお過ごしでしょうか。委員会は第3号への出発会を無事終えました。新たな筆者や読者との対話がここにまた生まれようとしています。

 第6回は、三村一貴(みむらかずき)君による創刊号の総評になります。現代の荻生徂徠ともいうべき知見と洞察力をそなえた三村君の文章は、論説集という場がいかなる意味を持って機能していくべきかを、的確に論じています。
 これまで同様、この新連載についてのご意見等は、ウェブサイト右下の“Have your say”、または本委員会メールアドレスにまで、よろしくお願いします!

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▶三村一貴


 Так вот мой друг Шерлок Холмс говорил,《Ищите мотив преступления.
 我が友シャーロック・ホームズは斯う言つてゐたものです。犯行の動機を探せ、と。
映畫『シャーロック・ホームズとワトソン博士の冒険』

 わたくしは犯罪學に關し少しの知識も有せぬ者であるが、確かに動機不明の犯罪は狂人の為す所と一般であらう。翻つて犯罪者の側に立てば、確たる動機が定まればその犯行の範圍は自づから限られることとなる。
 この限りに於いては論説の事情もこれに類してゐる。動機不明の文章ほど人をして懊悩せしめるものはない。逆に縦令論説中に示される個々の情報・専門的な事柄を難解に感じても、その論説を書いた動機を把握できれば、対話の端緒を得ることができる。また若し動機を共有できたなら、讀者は論者と同一の地點から出發して、異なる方向へ進むこともできる。但し斯かる生産性を犯罪に望んではならないことは論を俟たない。
 創刊號所収の論説では、宮田・日野兩氏及び小論は動機が不明確であると思はれる。宮田氏の先づ答へるべき問は「結局これを論じて何になるのか」であらう。しかしこの種の論説を為す者は、概ね「論じて何になる譯でもないが、それでも論ぜざるを得ない」との認識に立つてゐるもので、ある種の動機が有るとも言へるが、それが〈私的〉な状態に止まる限り、讀者は納得しない。讀者を説得するには、何を論じ何を論じないのかといつた〈文體上の戦略〉を必要とする。
 日野氏も「何故わざわざ『笑ひ』などを?」と真率に訊かれたなら答へる義務があらう。同氏の思考についてゆくことはできる。ついて行つた結果、讀者が何の展望も得られなかつたとしたら、上記の發問を封じることはできない。但しわたくしが思ふに、同氏は自身の言葉を背負つていづれの方向に歩まんとしてゐるのか、未だ定まつてゐない。従つて創刊號の論説を以て性急に氏を裁くことのなきやう讀者に求めたい。宮田氏の論についても同様である。
 小論については今回投稿した二篇において論じたのでここでは贅言しない。
 渡来氏の論には明確な動機があり、従ってその趣旨の理解も、賛否両様の意見を提出することも容易であるが、議論を空論とせぬためにはもう一工夫すること、即ち問題系を擴げることをここに提案する。さうすればさらに多くの人を自己の思考に參加させることができるであらう。
 鷲見氏の論はその體裁を見ても何らかの〈戦略〉のもとに書かれてゐることは明らかであり、讀者にも〈讀みの戦略〉を立てることを要求してゐる。氏の論は讀者に〈言語経驗〉をさせることを狙つてゐるために、いかなる知識・いかなる情報も呈示してをらず、通常の論文を讀むやうな態度――例へば情報を取捨選擇しながら讀むやうな讀み方を以てしたならば、何も讀むことはできないであらう。この論説集は書き方のみならず、讀みの態度を摸索する場でもある。そのやうな場が成り立つのは他でもない、専門的な知識は有つても思考に専門性は有り得ないからである。

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 次週は、新論説集創刊号全体に対する別の総評になります。次回総評担当者は、吉村勇志(よしむらゆうし)君です。乞うご期待!

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