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2014年7月6日日曜日

【連載】前号への評 第5回 - 日野公純『断章的序説 ―笑い―』


 論説集発行委員会編集部です。編集長もようやく日本に帰国し、日本時間を意識して投稿できるようになりました。じめじめとした重苦しい空気が、いかにも豊潤な夏の近さを想わせます。

 第5回は日野公純(ひのこうじゅん)君の『断章的序説 ―笑い―』です。落語の演者でもある日野君の文章は、彼みずからの経験や知的な観察にあふれていて、評者がこれを読みとる視座も、またなかなか特徴的です。
 これまで同様、この新連載についてのご意見等は、ウェブサイト右下の“Have your say”、または本委員会メールアドレスにまで、よろしくお願いします!

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▶小田拓弥


 五つの点について述べたい。第一に、様々なシチュエーションにおける笑いが現実の知覚と予想とのズレによるものとして説明されているが、この説明に登場する「内的世界」というキーワードの用法にブレがあり、記述が不明確になっているように思われる。第二に、「負の感情」との対比で述べるために「感情としての笑い」を問題にする(このことには、心身問題を一旦無視できるという利点もあろう)が、この「感情としての笑い」というものも不明確ではないだろうか。第三に、この文章で展開される理論は現実の知覚を要素とする理論であるが、思い出し笑いのようなものはどう処理されることになるのだろうか。第四に、「メタ座標」などの概念が登場するが、こういったメタ的なものを際限なく使うことは「何が起ろうとこの理論で説明できる」という事態につながりかねず、その制限が問題とされねばならない。第五に、筆者の「信念」に基づき、この文章では専ら「起す」ものではなく「起る」ものとして笑いが捉えられているが、愛想笑いのように「起す」ものであるように見える笑いも確かに存在する。たとえ、「『起す』笑いも含め全ては『起る』笑いなのだ」と言うのであれ、「起す」ものに「見える」ことについては、そのように「見えない」笑いとの差異が論じられなければならない。彼には、こうした点も含めて考察を深めてもらいたいと思う。それが「序説」を書いた人間の責務であろう。

▶田中涼介


 「動物行動学の父」と呼ばれるニコ・ティンバーゲンは、動物の行動を研究する指針として「適応」「系統発生」「メカニズム」「個体発生」からなる「四つの質問」を提唱した。この文章は、もっぱら「至近要因」とも呼ばれる後半の二者、とくに「メカニズム」に着目したものと位置づけられるだろう。一方で、断章37で筆者も触れている通り、笑いが「なぜ進化し得たか」、あるいは笑いの「機能」(「究極要因」とよばれる前半の二者に対応する)について考えることは笑いを理解する上で必要不可欠だろう。ヒトが唯一の「笑う動物」であると同時に唯一の「話す動物」であることを考え合わせると、笑いを第一義的にコミュニケーションの観点から考えることは非常に有用であるように思われる。
 加えて、心理学の歴史は、「視覚」から「自我」に至るまで、我々が内省とか経験によってひとつながりであると信じて疑わなかった様々なコンセプトが解体されていく歴史であった。したがって当然「笑い」という概念の一体性も常に疑ってかかるべきだろうし、すべての笑いを説明しうる統一的な理論を追い求めることには危うさがつきまとうことは、十分意識されてしかるべきだろうと思う。

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 次週からは、新論説集創刊号全体に対する総評になります。次回総評担当者は、三村一貴(みむらかずき)君です。乞うご期待!

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