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2015年2月4日水曜日

「もの」ってなに?

 みなさんこんにちは。編集長の鷲見です。今回は、ウェブ限定の特別企画です!
 今回のテーマは、「ものってなに?」です。よく人と話していると、「あれ?なんか話がかみ合ってないな」とか、「お互いの考えは前提から食い違ってるかも」という体験は誰しもありますよね。今回は専門の違うマージナリアの有志4人で、実際にどれほど考え方が違うのか調べてみよう、という話になり、急きょ文章で実験することにしました。
 たとえば、写真を見てください。同じ「もの」を、「もの」、「モノ」、「物」、「mono」で検索してみました。同じ「もの」なのにもかかわらず、Google画像検索の結果はこれほどに変わってしまいます。同じように、専門や職業など、ふだん私たちが関わっている事柄の性質によっても、同じ言葉に対する考え方は大きく変わるのではないでしょうか?この専門性の問題を目に見える形で比べられるようにすることが、本企画のささやかなゴールです。
▲「もの」
▲「モノ」
▲「物」
▲「mono」

 そこで今回は、「もの」という言葉をそれぞれが扱う分野の立場から説明することにしました。参加者は、
  町田哲哉(法学部)
  高橋忠宏(工学部)
  宮田晃碩(哲学)
  鷲見雄馬(バレエダンサー)
の4人です。笑ってしまうほどかけ離れた世界で活躍する4人が、「もの」の正体に迫っていきます!じっくりお楽しみください。



*     *     *

1.町田の場合(東京大学法学部)


 法学において「物」とはなにか。日本民法85条は「この法律において物とは有体物をいう」と規定するが、判例通説は「物」を所有権の客体と定義する。所有権とは客体を自由に管理・処分する権限であるため、この定義からは電気等も「物」に包含されることになる。なお刑法において窃盗罪など移転罪の客体として「財物」という概念が用いられることがあるが、これは民法上の「物」と同視される。すると盗電が窃盗罪を構成するかが問題となるが、移転罪の本質は所有権侵害にあるため、所有権の対象たり得る電気は「財物」であるとするのが判例である。(現在は電気窃盗につき特別法があり、議論の実益は薄れている。)

2.高橋の場合(東京大学工学部物理工学科)


 外からのなにかの影響に対して反応して変化すれば、それはものです。

3.宮田の場合(東京大学教養学部教養学科)


 当然ながら哲学に於いては「もの」とは何であるか、ということ自体が根本的な問題になっている。ただしこの問いの起源は言語と切り離して考えることができない。おそらく印欧語に於ける「もの」の問いと日本語に於ける「もの」の問いは、それに対するアプローチからして異なったものとならざるを得ないだろう。
 Thing, Ding といった語がラテン語のresを引き継ぐものなのかどうか、これについてはよく知らない。ギリシャ語では πραγμα がそれにあたったのだろうか? なんにせよそれらは、彼らの思考の外側に位置づけられるものなのではないかという気がする。少なくとも日本語の「もの」とは全く違うものである。恐らくそれらは人間が関わる対象なのであって、いわばestateといったニュアンスを帯びるだろう。estateは所有の枠組みで理解されるものである。estateというのは語源的にいえばe-stateで外に立てるということだろうから、existenceと通ずるところがあるだろう。existentiaとessentiaとを並べて思考するのはスコラ哲学の定型だったように思うけれども、「もの」というのがexistentiaとessentiaとに対してどういう位置をしめるものだったのか、この点を観察することは「もの」に関して有益な示唆を与えると思う。いずれにせよ印欧語に於いて「もの」というのは「存在」と微妙な関係にあったのだと思う。「存在」というのは概念化以前に、言語の根本に染みついたものである。
 西洋では、とにかく、「もの」というのが、おそらく初めから思考の対象になった。延長として捉える(デカルト)とか、統覚にとって不可知のものとして捉える(カント)とか、そういったことはこの「思考の対象」という域をでない。思考が必ずしも十分に「もの」を思考しうるのだと想定しなかったとしても、その構図が根本からひっくり返ることはなさそうに思える。
 対して日本語に於いては「もの」が薄く広く蔓延している。形式的な語彙として用いられている。これはなにも近代、現代以降の日本語に限ったことではないし、果ては接続助詞にまで食い込むほどである。「もの」は思考の対象であるより、あえていえば思考の主体でないかとすら思える。すこし正確に言えば、思考の主体とか対象とかいうことを考えることがそもそも不当である、ということを「もの」は証言しているようにも思える。こういった点についてはすでにさまざまの国学者や国語学者、国文学者などが論じているだろう。
 「もの」は「こと」と親交がある。このふたつの語がどういう関係にあるかということは、やはり既に散々論じられているだろう。たとえば「こと」が時間継起のなかで一点、あるいは一部分を占めるのに対し、「もの」はずっとそこを貫いているものなのだ、など。これに関連した言い回しをつぶさに検討するのは興味深い仕事になるはずである。

 再び哲学に近い文脈に戻って言えば、「もの」をめぐる思考が、ある意味で哲学の一貫性を支えてきたというようなことは言えるかも知れない。哲学の一貫性を保つのが何なのかということはそれ自体また問題になりきらない問題だけれども、ひょっとするとそれを「もの」と「こと」に分けることができるかもしれない。言葉は「こと」に属する。言葉を継承するというのは哲学にとって絶対に必要なプロセスであり、たとえ否定的に以前の言葉を受けとめるにしてもそうなのだが、一方でそれらの言葉が何を相手にしているのかということ、その対象を「もの」というのだとすれば、やはり「もの」が受け継がれてきたということも哲学の継承にとって本質的だと言えるだろう。こう言い換えることが出来るかもしれない。哲学の継承が可能なのは「同じ世界に生きている」からなのだが、この「同じ世界に生きている」ということを構成するのが、一方では言葉(「こと」)であり、一方では「もの」であると。もちろん、この「こと」と「もの」の境界や配置は揺らいだり入れ替わったりするかもしれないが。

4.鷲見の場合(グルジア国立バレエ団)


 ダンサーにモノとはなにか、と聞いたところでなにも特別な答えは返ってこないだろう。たしかに、ダンサーをモノのように扱う振付家には辟易するし、モノのように踊るダンサーが観客を感動させることはできない。感情を伴わない、あるいは人間的でないもののことをモノというのかもしれない。じゃあその「人間的でないもの」ってのはなんだ――?こうやって話はますます曖昧になる。ここで適当な定義を作ることもできるが、つまるところ、モノを定義しているダンサーなどいないだろう。定義されない程度の言葉が、モノである。

*     *     *

 いかがでしたか?もちろん書き手の性格も反映されてはいますが、字数だけみても専門ごとの特色がよく表れているように思います。第4号に所収予定の企画「短評Short Review」や「Define your discipline.」、そして「闇鍋読書Exchange Reading」でもこういった問題を扱っていくことになるかと思いますので、みなさん乞うご期待ください!


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