つまらない、と思う。僕の周りでなにも面白いことが起きないからだ。
僕の周りで面白いことが起きないのは、面白いことを起こすような人間が周りにいないからだ。面白いことを起こすような人間が周りにいないのは、僕がそんなに面白いことを起こしていないからだろう。僕が身近な面白いことに気付いていないだけかもしれない。どちらにせよ、自分もまだまだつまらない奴だなあ、と思う。
ただ僕が気になるのは、面白いことをやっていても寄ってこない、もっと面白くない奴のことだ。僕が面白いことをやっているかどうかはさておき、面白いことをやっている人間にアタックしている奴が、心なしか少ない。僕の周りには、少ないのだ。
僕が面白いことをやっているかどうかの判断は他人に任せるとして、面白いことに寄りつかない人間を見ると、なんだか心が痛む。時間がないのかもしれないし、そんなことが世の中にあることを知らないのかもしれないし、はたまた本当に興味がないのかもしれないけど、面白いことに寄りつかなかったら、何に寄りつくんだろう、と思ってしまう。
アムステルダムの人々は、面白いことに対する嗅覚が非常に優れていた。 |
だからだろうか、非常につまらない。なにも起きないというより、なにかを起こす人がいないからだ。なにも戦争を起こすなんて馬鹿げたことを言っているんじゃない。物事の良し悪しもわからずに、面白いこととそうでないこと全てに対して、見えないシャッターを下ろしてしまう盲目の日本人が多くて、もったいないと思うのだ。これは過去数年の僕自身に対しての反省でもある。僕なんて、このマージナリアを細々と続けるくらいのことしかできていない。マージナリアにしたって、読者の反応が鈍い、と思う。なにも読者を糾弾しているんじゃなくて、素直にマージナリアがまだまだ面白くないのだと思う。いや、言ってしまえば筆者も読者も、まだまだ感覚が鈍いんだろう。「アー」と叫ぶ人間も少ないし、「ウン」と答える人間も少ない。これじゃあ、ジリ貧だ。
シンプルに言って、僕らの問題は3つだ。第一に、面白さを「わかる」ための、この「わかる」ということがわからないとしょうがない。こういうことに関しては、東大生よりもバレエダンサーのほうがよくわかっているなと思う。「わかる」というのは、本を読んでなにかを覚えたりすることではない。本にしろ映画にしろ、「あーこの人こういうことがしたいんだな」とか、「世の中こんな人間がいるのか」とか、そういう人間との出会いが、わかるということだ。知識を「わかる」なんてことは、究極的にはありえないと思っていて差し支えない。数学の定理の証明なんていうのは、筋が通っている、というだけのことだ。社会生活における「わかる」は、その程度に留まらない。だからだろうか、僕が言われて一番迷惑する誉め言葉は「頭いいね」の類いだ。学歴なんて糞くらえ、というのはむしろ開成高校を出た僕のセリフだ。勉強ができなくても東大生の何倍も頭の良い人間を、僕は何人も知っている。机に向かう勉強ができないなら、ほかの世界でまっとうに人生の勉強をすればいい話だ。長いこと机に向かう勉強を続けていた僕などは、最初から人生の勉強だけに没頭してきた友人には到底勝てない(それがとても悔しい)。
第二に、面白いということがわかったとして、次に何が面白いのか、これがわからないと始まらない。面白いことを感知するアンテナが、みんな弱いと思う。いかんせん時間に追われる生活が良くない。誰もがこれでアンテナを駄目にしている。時間に追われるだけでなく、睡眠を削っているようでは尚更だ。睡眠を削ってでも面白いことがわかる、なんて人間はまれだ。大抵は盲目的に自分の仕事に追われるか、あるいは羽目をはずして遊びまくってしまう。どっちつかず、なんていうのも典型的な例だ。仕事にしても、遊ぶにしても、物事の程度加減がわかるのは時間に余裕のある人間だけだ。時間に余裕があれば、精神的にも肉体的にもマシな生活ができる、なんてのは、当たり前の話だと思う。
そしてゆくゆくは、面白いことに飛び付き、さらには面白いことを始める行動力と勇気が必要だ。いや、ゆくゆくは、なんて言っていたら日が暮れる。行動力は勇気そのものだ。最初は口だけでいい。口だけでも立派な大物になってしまえばいい。あとは自分自身の劣等感を拭い去って、行動を起こせるたしかな自信を身につけていくことだ。僕の場合もそうだった。いろいろと興味のあったものの中では、バレエがいちばん出来なかった(もちろん、もっとできないことも数え切れないほどあるが、性に合うものの中ではバレエが一番どうしようもなかった)。だから、今も続けている。そんなことを言うと怒られそうだが、この類いのモチベーションほど長続きするものはないと言っていい。はるばるグルジアでダンサーとして独り立ちした今でも、バレエを見返してやろう、なんてことを心のどこかで思う。そんなわけだから、ある日突然まったく別のことを始めているかもしれない。
そういうわけで、僕の周りには「わかる」とは何かをわかっている人間も少ないし、何が面白いのかわかっている人間も少ないし、行動力にあふれた人間も少ない(全くいないわけではないが・・・)。だから、つまらない。その人はすこぶる面白がっているのかもしれないが、他人を面白がらせるほどではない、ということだ。僕をふくめて、じつにつまらない世代だと思う。だからこそ1つだけお願いしたいのだが、もしも僕が一世一代の勇気を出して「アー」と叫んだら、そのときは「ウン」と返してほしい。たぶん、その1回くらいしか面白いことは言えないだろうから。
(鷲見雄馬)
P.S. この文章なら、だれでも読めるんだろうか。僕はつねづね、「難しい文章を書くね」と言われてきた。それが癪に障るので、ついにここまで文体を崩す羽目になった(僕が本当に書きたい文章は、もう5年くらい置いてけぼりになっている)。なにせ、みんなに読んで「わかって」もらえないと、意味がないからだ。僕はそういう意味で、高校のときはどんな難しい言語や文章にしても、同じように相手のことを理解したい一心で、漢文やらなんやら勉強していたものだった。
「もうこれ以上の発見、驚き、そういったものは無い」という倦怠感は、19世紀だか20世紀だかにも広く信じられていて、世代に関わらず普遍的な気が。当代をやや悲観的に見過ぎているような印象を受ける。停滞に捕まっているのは貴方だけではなさそうだが、取り敢えず応援はしている。
返信削除コメントありがとう。「世代に関わらず普遍的」という指摘はごもっともで、なにもこの世代だけがつまらない、と思っているわけじゃありません。ただこの種の倦怠感が僕らの生まれる前から社会に蔓延していた、というのが問題だと思っています。その意味で、僕らは「つまらなくなった世代」ではなく、「つまらない世代」という言葉がぴったりな世代だと思うんです。
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