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2015年9月14日月曜日

【委員連載⑪】たとえば、の話


 結局、宮田くんは余白の話をしたかったのか、吉村くんの非を指摘したかったのか。どうも煙に巻かれた格好だ。なんだか虫食いだらけの藁半紙を回されてきて、そこになにか書き足せと言われたような気分で、書きにくい。
 マージナリアの語源marginaliaは、「余白marginに書きこまれたメモ」といったような意味だ。ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアがこんなことを言っている。
Tudo quanto o homem expõe ou exprime é uma nota à margem de um texto apagado de todo. Mais ou menos, pelo sentido da nota, tiramos o sentido que havia de ser o do texto; mas fica sempre uma dúvida, e os sentidos possíveis são muitos. (Fernando Pessoa "O livro de desassossego")
人間が表白することはすべて、完全に削し去られたある文章の余白に書かれていた、とあるメモである。多かれ少なかれ、メモの意味については、それが消された文章について言及するものでなければならなかったのだとわかる。言い換えるなら、そこにはつねに疑問が残っているし、また考えられうる意味も無数に存在するのである。(フェルナンド・ペソア『不穏の書』)
宮田くんが示唆したかったことも、おそらくこの種の文脈に則っていたに違いない。1つには、批判という、いわば一直線的な議論の仕方だけでなく、解釈の余地を残すような文章表現もある、ということ、次に、ピタゴラスの文章を引用するなかで、彼のいう「言葉」と吉村くんのいう「数式」は、「秩序」という観点からみると面白い対比になるだろう、ということ。こんなようなことを宮田くんは指摘したのだろうと思っている。
 吉村くんの批判の仕方や、宮田くんの「言葉」という言葉の使い方についてはツッコミどころがまだまだあるのだが、そんなことを指摘したところで、次の連載記事を書く委員が批判の上塗りをしてくるだけである。あるいは言葉遊びのような連載を書く人もいそうだが、そんなことをしたってほとんどの読者はシラけるだけである。僕はもうちょっと「余白」の話をしようと思う。


余白とは何なのか説明します、なんて言うと、こんなことを言う人がいそうだ。
「宮田くんが余白のことを曖昧に言及するにとどめたのは、余白は定義できないものだからだ。文字として言明されたことに端を発する想像力や概念の世界にこそ余白が生まれるのだから、そんなものをはっきりと説明するのはバカげてる。」
もっともな言い分だ。それに、
「余白はページの白いとこだろバーカ。」
という無茶苦茶な暴論もありそうだ。いま「余白」の話をするというのは、つまり、宮田くんが言いたかった「余白」の話を、「余白」自体には言及せずに表現する、ということなのだ。余事象かなんかかな、なんて数学めいたことを考えた人もいるだろうが、そんなことは僕の言いたいことではない。あるテクニックを使えば、「余白」を生む文章を書くのが簡単になる、ということを言いたいのである。それはおそらく、吉村くんが使い誤ったテクニックだ。「たとえば、」というやつである。
 たとえば、という技法は使い方がむずかしい。下手なたとえを引き合いにするわけにもいかないし、そもそもたとえるべき状況ではない、なんてことも少なくない。たとえば、と言うからには聞く人にわかるようなモノを採り上げて、このモノがこうなってしまう状況Aといまの状況Bは、いろんな観点から見て酷似しています、だからAのときの結果と同じことがBにも言えますよね、というふうに説明していかなければならない。どんなモノと状況を取り上げるかが、とても重要なのだ。
 吉村くんは、「どんなモノ」を取り上げるか、という点でやり方がまずかった。吉村くんはこんなようなことを言っている。三村くんの文章は「言葉」を「数式」に置き換えても成り立つような論法で言葉を称揚しているのではないか、それは同時に数式を称揚することもできるということを意味しているのだから、言葉だけが称揚されうる、という理由にはならないだろう。とまあ、大体こんな感じだ。さてその論理はともかく、三村くんの文章を引っぱってきてそこに直接「数式」という単語をぶちこんだのがいけない。三村くんには彼なりの言葉の意味合いというのがあって、なにも言葉を称揚する論理だけが彼の文章の真髄だったら、それこそ数式で書いてしまえばよかったはずなのである(ついでにいうと、言葉を選ぶか捨てるかはその人次第、と言って文章をシメるあたりが三村くんの寛大さというか、抜け目のなさだ)。なお宮田くんについても同様で、着眼点がややまずかったのではないかと思う。前回の連載において、
数式のようなものが言語的に経験される、ということはあるだろうか。
というふうに、「言語的に」という言い回しを使っているのはいけない(これは、同じ運営委員の高橋くんが僕に指摘してくれたことだ)。なにせ吉村くんの立場においては、数式も言語のひとつだからである。
 それぞれが言いたいことは明瞭だし、それなりに伝わっている。「ものの見方によっては、あなたの考え方には語弊がありますよ」と批判するのはその人次第だが、それを指摘することがその人の文章にとってどれほど重要なことなのかはきっと意識されていないだろうし(そして実際あまり重要ではないのだ)、批判している人の自己満足や学問的プライドのほうが、きっと読者には強く印象づけられてしまう気がする。


 かく言う僕も批判めいた話をしているが、僕は「たとえば、」というテクニックの使い方が難しい、ということを指摘したまでである。話にはもう少し先がある。この「たとえば、」をどう使えば、余白の生まれるような文章が書けるだろうか。
 たとえば、いまここに一歩も日本の外に出たことのない少年がいるとしよう。彼はYoutubeはおろか、写真ですら外国というものをみたことがない。わずかにいくつかの国を聞き知っているだけだ。そんな彼に、Aという国について説明する場合、Aがどんな国なら説明しやすいだろうか?一言で表現してみてほしい。
▲見せることと魅せることは違う
写真:ヴァフタング・チャブキアーニ
(ジョージアのバレエダンサー・振付家)

 答えは無数にある。「日本のような国」が正解のひとつだ。ここでどんな例えを駆使したところで、いま目の前にある現実以上にわかりやすいものはないだろう。だがもしも、「あなた自身が理想とする国」ならどうだろう。この場合、Aという国をあなたは思うままに創り出すことができる。「日本のような国」のときと違い、現実の描写という作業から解放されたあなた自身は自由を感じるはずだ。しかも実際には存在しない、というのがポイントである。ある国について、あなたはあらゆることを知っている――そんなことは現実には不可能だ。
 そういった自分に近い存在を、聞き手にぐっと近付けていくことがさらに重要である。ここでようやく日本という身近な存在を利用すればいい。「Aは~な国なんだけど、たとえば、日本と違って…なんだ」というふうに説明すると、ますます想像力を掻き立てられないだろうか。さきほどの、どんなモノと状況を用いるか、という観点からまとめると、自分に近いものと相手に近い状況をとり合わせること、そして両者に近い存在を上手く利用すること、これらによって「たとえば、」は余白をさらに広げていくだろうというのが僕なりの提案である。「もしも、」も同様だ。「たとえば、」と「もしも、」は時として人を惑わせるが、この2つの存在しない世界には、夢も希望もないはずだ。
 下手に相手に媚びようとしても、自分の経験則から世の中を切り取っても、それらは余白を生まない。この文章だって、最大の弱みはそこにあるのだ。かみ砕いた文章は、必ずしもいい文章ではない。文章の書き手にとっての理想は、必ずしもわかりやすい文章ではないのだ。僕が昨今の文章はつまらないと思ってしまうのもこのためだ(バレエでさえも同じことが言える。観客にへつらったバレエを踊るか、それともダンサーがバレエのあるべき姿を見せていくか…そのバランスは昨今とうに崩れてきている)。ともあれ、自分が使う言葉、自分のいる立場、自分の論法、テクニック、そういった自分の見せ方と見え方を総合的に意識しながら文章を書くと、また一味違った余裕が生まれるというものだ。中立や超越、批判や註釈という単純な構え方は余裕ではないし、余白を作るために一捻りを要する。余白に書きこむ文章でありながら、さらに余白を残しておきたいのなら、役者よりも演出家の目を持たなければならないのである。




【委員連載⑫】につづく
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1 コメント :

  1. 写真引用元はこちら。
    https://burusi.wordpress.com/2009/10/06/vakhtang-chabukiani-5/

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