Phase 2: 大江弘之『若者と大東亜戦争』に対する、吉村勇志のexpression
歴史を動かすダイナミクスとは、果たして歴史学ないし文献から得られるものなのであろうか。複雑系科学の観点からすると、これはかなり疑わしいのではというのが私の意見である。即ち、一般に考えられる歴史学の目的として
1. 出来事をnarrativeに語ること
2. 歴史を動かすメカニズムを解明すること
の二つが挙げられるが、後者に関しては所謂歴史学では難しいと主張するのである。
ここで言う複雑系とは、“sandpile modelのように自己組織化臨界現象を示し、べき乗則等を生成するシステム”である。一般に要素間に相互作用があるシステムが複雑系になることは観察、実験、シミュレーションによって裏付けられている。べき乗則とは、“規模sの事象の頻度はs^(-t)に比例する(tは定数)”という統計的法則であり、これは“普段は安定しているが、突然大変化が起こってシステムが一変する”という現実の歴史に適合している。
複雑系をnarrativeに語ることは出来るが、それは深い意義を持たない。「砂山Aが崩れて、その砂でBがまた崩れて、次にCとDが」と語っていっても、得るものは少ないというものだ。これは、“複雑系は個々の要素からは挙動を予測出来ない”という性質があるからである。それよりも、「砂山の動きを支配する普遍的法則」の解明の方が重要であろう。私には、歴史学がしている仕事が前者ではないかという疑問が拭えない。歴史に学んでも現代の問題解決には役に立たないのではないか、それが私の疑問である。
Phase 3: 吉村勇志のexpressionに対する、大江弘之の返答
Cubic Argumentでは,最近Paul Kennedy『大国の興亡』(邦題)(草思社)を読みながら,近世から近代の歴史を学んでいる。ハプスブルク家がヨーロッパの覇権を取れなかったのは,ヨーロッパには複数国家が乱立し,互いに競っていたという背景や軍事技術発展に伴う財政的負担の増大や戦線の拡大による戦争遂行の困難な事情があったからだと指摘されている。
本書から得られる我が国を統治するにあたって教訓は,統治を考える以上は必須の見識であるといえよう。教訓だというためには,他の事象への通有性を有している必要があり,その限りで歴史はモデル化される。
他方,私たちを含め多くの人々が歴史を生きた物語として読んでいる。吉川栄治や司馬遼太郎などの作品を読み,歴史の登場人物に思いを馳せることもしばしばあるだろう。ここにおいては,歴史は唯一無二の物語として立ち現れるようにみえる。『永遠の0』もまた物語である。
さて,歴史を教訓と物語という二つの異なった取扱い方を振り返ったが,考えてみれば,教訓としても物語としても,読み手が,書き手を通して過去の事象を観ているという点では共通している。結局,両者は語り方(目的)の違いにすぎない。
すなわち,私たちがいかなる態度(目的)で歴史を観るかによって,歴史の立ち現れ方が異なる。私が問うたのは,「私たちひいては日本の生存のためにいかに歴史を活かすべきか」であった。歴史への憧憬を退けたのは,この問いのためである。
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