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1975年9月9日火曜日

水口智仁『技術者の倫理と医学教育に関する論考』

Phase 2: 水口智仁『技術者の倫理と医学教育に関する論考』に対する、石川夏子のexpression


 水口氏は自論で「そんなこと、工学をやっているものなら誰でも思いつく当たり前の話だろう」と言われたと述べていたが、「技術者の倫理」というものが果たして自明のものであったことがあるだろうか。倫理は一面では、行為に対して行為者がどの程度まで責任を負うことになるかということを示す。簡単に言えば、「お前のせいだ!」と言われるラインのコンセンサスはどこにあるのか、という話だ。その極をあげれば、「風立ちぬ」と「ゴジラ」である。「風立ちぬ」の堀越二郎はゼロ戦を作りながら、その戦争責任は負わず、「美しい機械を作りたかった」として肯定される。一方、「ゴジラ」に登場する芹沢博士はゴジラを退治する兵器、オキシジェンデストロイヤーを開発したが、それが戦争に使用されることを恐れ、その兵器の設計図を燃やし尽くした上で兵器と心中する。果たして技術者はどの程度の責任を負うべきなのか、という問いにはいまだはっきりと答えられているとは思えない。理学部の私からすると、「技術者の倫理」とは生命倫理のことだ。この生命倫理も生物学者は「当たり前のもの」と言うが、生命倫理を真に内部化せず、自分を外から縛る規則としか見ていない生物学者のなんと多いことか。カリキュラムの必要性を説く水口氏には同意するが、単純なカリキュラム化は倫理を表面的な暗記事項に貶めかねない。倫理を内部化し、議論し直すことができる科学者が求められる。




Phase 3: 石川夏子のexpressionに対する、水口智仁の返答


 石川氏、および他の読者からは私の論に対して、「技術者がどこまで自分の技術に責任を負うかという問にも定まった解答はないのに、医学部のカリキュラムで技術者の倫理を教えようとしても、通り一遍の暗記に終わるだけではないのか」との批判を頂戴した。先の論で私は、技術を創る存在である“技術者”engineerが社会に対して担う責任について医学教育の枠内で触れることで、医者が医療技術の革新に携わるうちに社会や人間の在り方を変えてしまう可能性があるという認識を持たせるべきだ、と述べた。これは、そのような可能性があるということを認識することが、“技術者”としての自覚を持って、医療における技術革新を俯瞰的に・批判的に吟味していくことの第一歩であると考えたからだ。技術者と社会・人間との関係を考えるうえでの切っ掛け、種火となるような知識をカリキュラム内で学生に与えればよいと考えた。
 しかし、知識さえ与えれば、後の「自分で考える」というステップは学生が自分でどうにか乗り越えるだろう、というのは楽観的過ぎるかもしれない。執筆時の私の心には、現代の医学教育では、科学哲学、あるいは科学技術と社会との関わりについて触れる機会が極めて少ないという焦燥があったようだ。それゆえ、論説中で何らかの解決策を提示することに拘り過ぎたきらいがある。正解のない問いを考えられる人間を養成する方法こそを、考えるべきだったのかもしれない。



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