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1975年9月9日火曜日

宮田晃碩『待続――持続の代わりに』

Phase 2: 宮田晃碩『待続――持続の代わりに』に対する、鍵谷怜のexpression


待=持

 「待つ」とはどういうことだろうか。我々は、だれかを、なにかを、「待つ」。
 それは、だれかを、なにかを、「持つ」ことへとつながっていくだろうか。
 わたしたちは「意味」と「ことば」を待つ。そして待ち続ける=待続の試みは、人と人とが向かい合うことを熱望しながらも叶わない、「裂け目」での倫理を呼び覚ました。その哲学が向き合う「世界」は、名指されえない対象として立ち上がる。そこで「持つ」ものは何もない。
 あなたもこうやって、待っていてくれるでしょうか――そう、この問いに答えなければならない。このテクストを本当に「持つ」ためにも。
 待続の倫理は端的に言って困難な道である。投げかけによって引き剥がされ離された「我々」は、自らを再び世界へと対面=対話させなければならないのである。そうして私はどこへ向きあおうかと考える。その相手は知らないままなのだ。その困難が可能であるか不可能であるかということすらも知りえない彼方を想い続けなければならないのだ。
 それはまさしく「絶-望的」な試みだ。しかしそれでも、「私も待つ」と断言しよう。「持つ」ことへの希望さえもなしに、待つだろう。なぜならば、私はもう「持」と「待」を取り違えてしまっているからだ。意味は解体し、イメージだけがどろりと溶け出し混ざり合っている。ことばをイメージへと作りかえることで困難な対話へと自らを送り返そう。

 私は、そのグロテスクな空間でただ待ちましょう。



Phase 3: 鍵谷怜のexpressionに対する、宮田晃碩の返答


零、再会

 彼はどこで待っているのだろうか。「待っていてください」という約束をして別れたものの、待ち合わせの場所は決めなかったのだ。だが再び会うとすれば我々はそこで、我々が実のところ何を持っていたのか、何を恃みに生きてきたのか、何が自らをして特別の人間たらしめていたのか、どれほどの時が過ぎ去ったのか、知ることになるだろう。待っていたというそのことが謎として取り残される。
私には、彼がどのように待っているか決して分からない。「待つ」ということで何を意味するのか、これだけが約束されえないのである。「待つ」という言葉はいつまでも意味を待っている。それゆえにこの「待つ」ということは、ともすれば待つ人の、待たれる人の免罪符となってしまう。しかしもし「待つ」ことに縋るならば、私は自らの文体に絡めとられてしまうだろう。「待たせる」ことでひとを束縛するならば、それは私の望むところではない。私には彼がどのように待っているか知りえないが、しかし再び会う彼がもとのままでないことだけは分かっている。だからこそ「待っていた」ということを誠実に受け止めねばならないのである。あらゆる言葉が意味を待っている。それは、言葉の意味が恣意的であるということではない。まさに私を待っていたからこそ、そこで私は対話する。この対話は、出会いと別れを知らねばならない。そうして初めて、自ら何事かを語るということもできるのではあるまいか。



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