Phase 2: 吉村勇志『工学と社会の在り方について』『工学とその安全性、原子力等について』に対する、徳宮博文のexpression
以前、吉村氏との議論の中で、私は「哲学は前提が無い学問である。それに対して、工学は役に立つことをするという前提がある」と言ったことがある。
この発言の意図は、工学を研究している吉村氏に対し、そして彼は当時の私には典型的ないわゆる「合理」主義者として捉えられていたのだが、「合理」性をつきつめ、人文学に懐疑をつきつけ続けるならば、あなたにとっても哲学は工学よりも優位なのではないかと指摘することにあった。
しかし、このやりとりは私が本誌にある文章を書き終える前、すなわち、私の、哲学と思想についての理論を完成させる前になされたものであることに注意されたい。いまからみれば、私の指摘は的を外し、私は吉村氏を理解し損ねていたのである。
このことは、吉村氏の文章から明らかである。つまり、工学とは、一つの理論なのではなく、実践であり、「対処療法」であり、「汎用的手法の個別化」であり、失敗しうるもの(=混沌(カオス))であるから、工学とは、思想なのである。
吉村氏の文章から、私と吉村氏は、共に思想という同じ地平にいることがわかった。
私は、吉村氏もまた私の文章を読んで、彼が疑問視し続けていた人文学を、工学と同じ地平にあるものとして、再評価することを期待している。
Phase 3: 徳宮博文のexpressionに対する、吉村勇志の返答
かつての徳宮氏の「自分以外のものは全て決定論的に動いていて、その全てを知り、そこで自分は最善の選択をしたい」という発想は、今の私にとってはあまり共感できるものではない。確かに、「全てを知りたい」という欲自体は私も中学生の時には持っていて、数学をやっていた。しかし、今は全てを知ることは不可能、かつ知ったところで良い選択はできないと思っている。というのも、前者はカオスや複雑系が示すことであり、後者に関しては、私は人間を限定合理性と利他性によって捉えているからである。限定合理性とは、人間の認知能力には限界があり、自分の利得を最大にしようと思っても最善手を選択できる訳ではないということであり、利他性はそもそも人間は自分の利得を最大化することが行動の基準にはなっていないということである。このような、人間の“非合理性”が生み出す現実世界のダイナミクスは見ていると飽きることがない。彼の言う「裏返されて机に置かれたトランプは何なのか既に確定されている訳なのであるから、それをどうにか知った上で行動したい」、これも一つの見方であるが、私にとっては「分からなくて悩む、分かっても実は悩む、そんな人間が沢山いて集団現象を引き起こす」そこに興味がある。今の彼は新たな思想の地平を求めて彷徨っているようであるが、私としては行動経済学や複雑系、経済物理などを勧めたい。何らかのインスピレーションが得られるだろう。
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