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1975年9月9日火曜日

鍵谷怜『二重奏の愛 ――アルチュール・ランボー「錯乱Ⅰ」』

Phase 2: 鍵谷怜『二重奏の愛 ――アルチュール・ランボー「錯乱Ⅰ」』に対する、三村一貴のexpression


  「錯亂Ⅰ」の原文を讀んでみた。原文は言はば賦であるが、翻譯は些か散文的で、それ故あまり「錯亂」してゐないやうに感ずる。岡目八目ながらわたくしも一部分を譯してみたい。例へばかうしたらどうか。
  Je suis en deuil, je pleure, j'ai peur. Un peu de fraîcheur, Seigneur, si vous voulez, si vous voulez bien!
   私は真つ暗、私は泣きます、私は怖い。ほんの少しの爽やぎを、神様、どうか、どうかお願ひです!
無論これは趣味の問題でもあり、抄譯と全譯とでは譯(わけ)が違ふ。単なる岡目八目である。
原文が飽くまで賦であると考へれば、例の「彼がこの女を死なせたように」の部分にも特に疑問を感じない。餘り論理的に考へない方が良いと思ふ。この部分の科白が遊離的である  詩の中にもう一つ別の詩が入つてゐるやうに讀めることについては同感であるが、もつと想像を逞しうし、「入れ子構造」に配慮するなら、發話者たる處女の心の聲は「彼がこの女を死なせたやうに、あなた(=夫)も私(=處女)を死なせるでせう」であると讀むこともできるかもしれない。
 最後に一つ疑問點がある。結末部分の譯文に「もし彼がどこかの天へと再び昇らなければならないのならば」とあるが、何故「再び」なのだらうか。本文からは「彼」が以前に昇天してゐたことを讀み取ることはできない。remonter に「遡る」の意があることを考慮すれば、ここでは「戻る」の意なのではなからうか。この部分は「もし彼がどこかの天へと戻ることになつてゐるなら」と讀んだ(原文:s'il doit remonter à un ciel)。




Phase 3: 三村一貴のexpressionに対する、鍵谷怜の返答


 三村君から寄せられた二次的な文章への返信という形であるが、真正面から向き合って議論することが有益だとも思われないので、また違った側面から書いてみたい。
私の文章や翻訳にその狂気の様が現れていないのではないのかということであったが、ランボーは散文的なるものの錯乱をここで表現していたのではなかったか。処女はあくまで淡々と語るだろう。そして我々はその処女を目前にして、あたかも彼女を傷めつけた夫であるかのように感じ、それを否定しながら読み進める。そこで生じる出来事は狂気なるさまではないように見えるだろうが、そのこと自体に真の狂いがあるのであって、論理的な見せかけが全くの不条理に息づいているということが示されねばならない。
 そんなことを言いながらもやはり三村君の文学に対する深い造詣にはかなわないわけではある。remonterの解釈についてはかなり無理をして訳したものだから、まったくもって不十分であったろう。「遡る」の意を汲んで、「戻る」とするのはやり過ぎの感も否めないが、ただ「天に上る」ことを指していることも考えられよう。とはいえこれでは味も素っ気もなくはなかろうか。
 最後に、何がわれわれを錯乱させるのかを考えてみても良いだろう。近代の狂人とは誰だろうか。さまざまなる欲望に身を任せ、しかしながらその素振りも見せない者たちがどれほどいることだろう。このテクスト自身が錯乱しているのである。





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