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1975年9月9日火曜日

三村一貴『論語註 其一 附 序詞』

Phase 2: 三村一貴『論語註 其一 附 序詞』に対する、宮田晃碩のexpression


 大学のレポートで『蜻蛉日記』のある一部分を検討しているとき、突如として悟ったことがある。即ち、あの「日記」には著者である道綱母の人生が賭けられているのだ、ということである。「……まさに日記に於いて人生というものが在る、そういうことだったのではないか。人生なるものが改めて反省されずとも、生きていくことはできる。文化的な生活を送ることもできる。しかしそこで表現を得、人生を得たものが「日記」であるということになるのならば、われわれが「日記文学」を読むとき向き合うべきは、そこで獲得された人生そのもの、表現そのものなのではないかと思うのである。」記述の上に人生を見出すものは、自らの人生をも始めねばならない。「君子」とはそういう者たちのことであろう。
 そのように人生に出会うということが可能なのは、記述者の手許を覗き見ることによってではない。寧ろ記述に真正面から向き合うことによってである。それが記述を人生そのものとして立ち上げるのであり、その意味で人生を賭けた記述とは、はじめから読者――不特定のではなく、つまり「allではなくevery」としての読者――へ希望を託したものなのである。そのような註記(Marginalia)に於いて我々は、共に人生を歩むことができるであろう。希望とは、明日への幽けき期待の謂ではなく、いまここで共に人生を歩むことのしるしに他ならないのである。





Phase 3: 宮田晃碩のexpressionに対する、三村一貴の返答


  まるで脱ぎ捨てられた服を品評しているようだ。恐らく、「大学のレポートで……」から始まる文章を書いた宮田君はもういないのであろう。恐らく、この文章は彼自身によって乗り越えられてしまっているので、寧ろわたくしは彼が新たに書いたものについて発言すべきなのだろう。
 それで良いではないか。書かれたことについて云々しているばかりでは仕方がない。気が済むまで読んだら次に進むのみである。そこに書かれた「しるし」を見て「希望」が蘇ったならばそれで良い。絶望を思い出したなら、涙すれば良いだけのことだ。


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