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1975年9月9日火曜日

徳宮博文『『真理への「病」』と題されたメモ書き』

Phase 2: 徳宮博文『『真理への「病」』と題されたメモ書き』に対する、吉村勇志のexpression


 哲学は誤魔化しに過ぎないという感を得る文章であった。そう思った切っ掛けは“「『分析哲学』は『現代思想』ではない、人文学ではない」という命題は、厳密な意味において間違っている。”という一文である。この論説では、「論理体系の内側」と「論理体系の外側」のどちらを根拠に議論しているのかその場所その場所で異なっており、自分でも気付かぬ内に前者の結論から後者の論理を演繹したり、その逆をしたりしているのではないか。一度、例えば前者を赤文字で、後者を青文字で書くとかして論理展開の構図を整理することを推奨する。ここで、“この論説は徳宮氏の議論なのであるから「徳宮氏の論理」という体系の中に前者も後者も組み込まれており、無矛盾なのだ”という反論があり得るだろうが、これこそ詭弁だ。そんなことを主張してはどんな論理も絶対的に肯定されてしまうし、それを超えようとした「徳宮氏の論理」に反することになる。
 結局の所、徳宮氏は前提の無さ故に哲学が最も根源的学問であると信じているようであるが、上記のような杜撰な論理展開を見るに、根拠の無さを利用して自分に都合のいい「正しさ」を捏造しているように思える。幾らでも入れ子構造で論理を肯定出来る学問なんて欠陥であるようにしか思えない。外部から前提を与えられた学問、例えば自然科学では罷り通ることが許されないことが哲学では横行しているのではないかと思った次第である。


Phase 3: 吉村勇志のexpressionに対する、徳宮博文の返答


 私は、私の文章を鏡に例えた。
 確かに、私と吉村氏の間の議論は、当初は相互への不理解があった。相互の文章と合評会を経て、今では、私は工学についての誤解をなおすことができたし、吉村氏の工学観、世界観についても興味深く学ぶことができた。吉村氏も、私の文章がいっていることについて理解してくれているだろう。
 しかし、吉村氏のひとつの結論は、私への行動経済学の勧めである。私は吉村氏の世界観を一つの類例としてしか理解できていない。
 だから鏡というメタファーは恐ろしい結論を示唆している。なにかを読むとき、私たちは自身の知っていること、自身の反映しか読むことができてないのではないかという恐れである。
 反射的には、吉村氏の提案は吉村氏とその環境の反映であるのだ、といいたい。しかしこれは批判と自戒の入り混じったことばのようななにかだろう。
 だからこそ、その鏡にはなんとしてでも傷がついていてほしい。



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