Phase 2: 大川内智海『自然言語の意味論に関する2つのノート』に対する、高橋忠宏のexpression
名詞・動詞の区別は表層的には定義できるが、深層においては困難である。「野球しよーぜ」という文の場合、「野球」は表層的に名詞の形だが、意味は明らかに動詞である。大川内君の論説では名詞・動詞を無定義に用いていたようだが、如何お考えだろう。
名詞と動詞の境界線はどこであろう。例えば「犬する」という動詞は存在しないが、「間諜する」という意味を表すとしても理解はできよう。このように名詞に代動詞を補うことで動詞を発明することは可能であり、極めて日常的に行なわれることだ(むしろ俗語でおこりやすい)。名詞・動詞の線引きは難しいのではなかろうか。
ここまで不用意に文の構造に「表層」と「深層」という区別を用いてきたが、大雑把にいって前者は文法に規定される構造、後者は共有される単語情報に規定される構造のことである。ここで一つ対案を立てる。表層構造と深層構造の距離が小さい句ほど名詞句を形成しやすくなるのではないか?そして距離を『確率質量関数』の広がりで定義するのはどうだろう。不確定性原理を対応させれば、さらに質量の運動量と動詞性を対応させることができないだろうか。とすれば品詞や関数の連続性を素直に定式化できないか。
これ以上進めても言葉遊びの域を超えないので止めにするが、言語論と量子論の相性が良さそうだという彼の推測には大いに賛成である。
Phase 3: 高橋忠宏のexpressionに対する、大川内智海の返答
自然言語における名詞と動詞の区別は厄介である。ともかく印欧語を念頭において話すと、主に英語を対象としたMontague意味論ではこれを前述の通り単純に型の違いであるとする。例えば名詞型は動詞型から文型への関数だというように。
いま文中にloveという文字列が与えられたとする。これは動詞かもしれないし名詞かもしれない。しかし既に文構造に埋め込まれたloveという単語が動詞でもあり名詞でもあるということはない。この場合、動詞か名詞かの非決定性は文字列が単語を指示するレベルに存在するのであって、単語のレベルには存在しない。そうして前回のノートで私が議論した非決定性とは、それがあるとすればこのレベルではなく、例えば(形式的な単純化を離れてもこう言ってよいかは疑問が残るが)名詞loveがentityを指示するレベルにおいてのことだった。
翻って日本語の〈する〉については、これ自体が名詞を動詞化する接尾辞である。単語〈愛〉自体はあくまで名詞であり、〈する〉が膠着した別の単語〈愛する〉になって初めて動詞となる。ここで上記loveの場合と同様、文字列〈愛〉に動詞の一部か名詞かの非決定性は確かに存在する。一般に量子論を援用するなら「共役物理量」に相当する概念を入れたくなるのは自然な発想だろうが、名詞loveが指示するentityについての量が〈する〉による動詞化の認容度という指標と「共役」だとは考えにくいように思う。
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